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ムスリーヌにかぎって
作 ソンブレロ
 


    パン工場内の一角。
    中央に作業台。
    作業者はボソマート(以下ボソ)。
    パン生地を捏ねている。
    やがてビアキス(以下ビア)、現れる。
    
    
ビア よお。
ボソ ああ、ビアキス。
 おはよう。
ビア お前ずいぶん愛想のねえことしてくれるよな。
ボソ え。
ビア オレのツケのことさ。
 あの店のよ。
ボソ ちゃんと払ってきたけど……?
ビア まだ残っていたろうが。
 割り切ったことするなよ。
ボソ あの晩キミが飲んだ分だけじゃないの?
ビア おいおい、それじゃまるで契約でも交わしたみてえじゃねえ
 か。
ボソ 契約だなんてそんな……。
 ボクは約束したとおりにちゃんと……。
ビア なあボソマート、オレたちはなんだ?
ボソ なんだって?
ビア オレとお前の関係はなんなんだ?
 主人と使用人か?
 元請けと下請けか?
ボソ まさか。
ビア 違うよな。
 じゃあなんだ?
ボソ 友達。
ビア そうだよ。
 お前が思っている以上にオレは友達だと思ってる。
 だから特別に教えてやったっていうのによ。
ボソ ごめん、気が利かなくて。
ビア 今夜にでも出直してくれよな。
 で、どうだった?
 オレの言ったとおり賭けてみたか?
ボソ いや、それが、まだ……。
ビア まだ?
 なに眠たいこと言ってるんだよ。
 賭けは一瞬の勝負だって言ったろ?
 そう念押しまでしたよな?
ボソ そうだったね。
ビア あの日のオレの閃きは間違いなかったはずだ。
 神のお導きのようにスプリットの数字が次々と浮かんだんだ。
 それを特別に伝授してやったっていうのによ。
 自分で賭けりゃよかったぜ。
ボソ ごめん、やっぱりボクにはギャンブルは向いてないのかもし
 れない。
ビア いや、勇気を出して踏み出してみろ。
 お前のその無欲さは必ずツキを呼ぶはずだ。
ボソ そうかな……?
ビア そうだ、ボソマート、株はどうだ?
 お前にはルーレットなんかよりその方が向いているかもしれない。
ボソ ビアキスは株にも詳しいの?
ビア 知り合いにプロがいる。
 オレはあくまで仲介役だ。
 そいつから間違いのない情報を仕入れてきてやる。
 絶対に損のないやつをな。
 乗ってみるか?
ボソ あ、ああ、考えておくよ。
ビア おいおい、なんだ、それ、お前。
ボソ え。
ビア もしかして朝からやって、それだけか?
ボソ うん、まあ……。
ビア どうした?
 考え事でもしてたか?
ボソ じつはどういう捏ね方がいいかなって考えていて……。
ビア 研究熱心なのはいいが、今朝に限ってはまずいぞ。
 ペイザンが見回ってる。
 あの野郎、今度のチーフに気に入られようとして張り切ってやが
 る。
ボソ がんばるよ。
ビア ああ、がんばれ。
 とりあえず効率優先でな。
 あ、そうだ。
 そのボウルをよこしな。
ボソ どうするの?
ビア いいから。
 
    ボソマート、脇にあるボウルをビア
    キスに手渡す。
 
ビア おとなしくしてな。
 
    ボウルの中の小麦粉をボソマートの
    エプロンにふりかける。

ボソ どういうこと?
ビア ほら、こうすりゃお前の一生懸命さが伝わる。
 粉にまみれての奮闘ぶりをよ。
ボソ そうかな?
ビア ああ、言い訳なんかするよりずっといい。
 ペイザンも見て見ぬふりをするだろう。
ボソ ありがとう。
ビア 真面目なお前が怒られるのを見たくないからな。
 あ、それから……。
 これ、預かってくれないか?

    ズボンのポケットから鍵を取り出す。

ボソ なんの鍵?
ビア それが忘れちまってな。
 思い出すまでの間でいいんだ。
 なんたってオレは鍵をなくすプリンスだからよ。
 頼む。
ボソ ああ……。
ビア やっぱり来やがった。
 ペイザンだ。
 じゃあよろしくな。

    ビアキス去る。
    その逆方向からペイザン(以下ペイ)
    が現れる。

ペイ おはよう、ボソマート。
ボソ おはよう。
ペイ 調子はどう?
ボソ うん、まあまあ。
ペイ 朝からずいぶん張り切ってるみたいだな。
ボソ あ、いや……。
ペイ このトレイは何皿目?
ボソ えーっと、これはまだ……。
ペイ ははは、キミのいいところは丁寧だってことだからな。
 慌てることはない。
 でなければキミの長所がいかされない。
ボソ あ、ああ……。
ペイ キミほど仕事が丁寧な人はここにはいない。
 だからいずれキミをサブリーダーにしようと思っていることを伝
 えたから。
ボソ え。
ペイ 新しいチーフに。
 いずれリーダーに引き上げるともね。
 だからがんばれ。
ボソ うん、がんばる。
 新しいチーフってどんな人なの?
ペイ ああ、いままでのチーフと違って現場に滅多に来ないからね。
 少々シビアなところはあるけど、でも大丈夫。
 成果さえ上げていれば正当に評価してくれるさ。
 ところで……。
 まだ来てないようだね?
ボソ なにが?
ペイ キミに紹介しようと思っていたのに急に姿が見えなくなって
 ね。
ボソ 紹介?
 誰なの?
ペイ 急な話で悪いんだけど、じつはキミに面倒をみてもらいたく
 てね。
 仕込んでやってくれないかな?
ボソ 仕込むって……。
 新しい人なの?
ペイ まあ、新しいっていうか……。
 前のチーフが縁あって連れてきたんだ。
 ひと月くらい前から食堂でパンを焼いていたんだけどね。
ボソ そう言えば食堂のパンがおいしくなったってみんな言ってた
 けど、その人のおかげだったってこと?
ペイ ああ、確かに腕はいいみたいだけど、まあ、いろいろあって
 ね……。
ボソ いろいろって?
ペイ いや、その、大した問題じゃない。
 ただ、もっとほかの仕事も経験した方が本人のためだろうと思っ
 てね。
 キミにお願いしたいんだ。
ボソ でも、ずいぶん出来る人なんでしょ?
 そんな人を相手になにか教えられるかな?
ペイ 腕だけじゃ一人前じゃないからね。
 キミのように辛抱強く仕事に取り組めるようになってもらいたい
 んだ。
 この作業場でキミほど辛抱強い人はほかにいない。
 つまりキミほどの適任者はいない。
ボソ あ、ああ、ボクでいいなら……。
ペイ この場所もキミの名前も伝えてある。
 恐らくもうすぐ来るだろう。
 じゃあよろしく。
ボソ あ、なんて言う人なの?
ペイ ムスリーヌ。
 人見知りと言うか、少々クセがあるかもしれないけど、キミの誠
 意は必ず伝わるはずさ。
 心配はない。
ボソ うん、わかった。
ペイ じゃあ。

    ペイザン去る。
    その逆方向からムスリーヌ、静かに現
    れ無言のまま立っている。

ボソ あ。
 あの、もしかして……。
 あなたが、ムスリーヌ……さん?

    ムスリーヌ、立ち去ろうとする。

ボソ あ、待って。
 そうなんでしょ?

    ムスリーヌ、立ち止まる。

ボソ 一緒に作業するように言われたんだ。
 聞いてるよね?
 どうぞよろしく。
ムス ……。
ボソ あ、ボク、ボソマートって言うんだ。
 ニックネームはないから、ボソマートでいいよ。
 アナタのことはなんて呼べばいい?
ムス さあ。
ボソ ああ、自分から言いにくいよね。
 じゃあボクが決めていいかな?
 ムスリーヌだから、そう……。
ムス いいよ、オレのことは呼ばなくても。
ボソ え。
ムス 呼ぶなよ。
 迷惑だから。
ボソ あ、ああ、ごめん。
 ニックネームなんて余計なこと言って。
 気を悪くしたなら謝るよ。
 ムスリーヌさん、いや、ムスリーヌ君って呼ばせてもらうよ。
ムス ……。
ボソ 食堂のパンがおいしくなったってみんな言ってたよ。
 ムスリーヌ君が作ってたんでしょ?
 いい腕してるんだね。
ムス それは石窯のせいだ。
ボソ キミの腕がよかったからだよ。
 同じ窯なのに味がよくなったんだからさ。
ムス じゃあここにはまともに焼ける奴が一人もいなかったってこ
 とだ。
ボソ ああ……。
 ムスリーヌ君はどこで腕を磨いていたの? 
 どこかの高級なレストランとか?
ムス 毎日三百人分のパンを焼いていた。
ボソ え、じゃあ、もしかして大きなホテルのレストランとか?
 それとも客船に乗ってたのかな?
ムス 自分たちが食べる分だ。
ボソ もしよかったら教えてもらえない?
 おいしくパンを焼くコツみたいなのをさ。
ムス その手元にある塊はもしかしてなにかの餌か?
ボソ え、ああ、これは一応クッペなんだけど……。
ムス それをうまく焼きあげる自信はない。
ボソ つまり、この成形がよくないってことかな?
ムス 成形もひどいがそもそも捏ね方がひどすぎる。
 どんなに頑張って焼いても豚の餌どまりだ。
 百歩譲って猿の餌だな。
ボソ ずいぶんはっきり言うんだね。
ムス おっと。
 本音と建前の使い分けを知らないんで。
 もう話しかけない方がいいぜ。
ボソ いや、ごめん。
 いまの取り消しだ。
 ボクの前で建前なんて必要ないよ。
ムス ……。
ボソ 座ってよ。
 材料を用意するから。
 それまでこの続きを頼もうかな。
ムス 猿の餌づくりの続きを?
ボソ キミの腕で猿の餌以上にしてもらえないかな?
ムス 言ったろ?
 これじゃ無理だ。
 捏ね方がひどすぎる。
ボソ わかった。
 じゃあ猿の餌でもいいよ。
ムス なに?
ボソ ムスリーヌ君は腕がいいし、理想も高い。
 だからキミにとって猿の餌でも十分通用すると思うんだ。
 出来るね?
ムス 命令するな。
ボソ え。
ムス オレは奴隷じゃねえ。
ボソ もちろんだよ。
ムス 餌づくりなんて信念を曲げなきゃ出来ねえ。
 それは奴隷の仕事と同じだ。
ボソ これは餌じゃないよ。
 どんなに不細工でも人が食べるためのパンなんだ。
ムス それをパンと呼ぼうと肉と呼ぼうとお前の自由だ。
 勝手にやってくれ。
 オレを巻き込むな。
ボソ 少しは我慢もしなくちゃ。
 仕事って一人の力だけじゃ出来ないし。
ムス おい。

    ムスリーヌ歩み寄り、二人向き合う。

ボソ 信念なんて難しいこと言わないでさ……。
 う。

    ムスリーヌ、ボソマートのボディーに
    一発見舞う。
    ボソマート苦しみもだえる。

ムス 何様のつもりだ?
ボソ ごめん。
 先輩風を吹かせたつもりはないんだ。
 でもそう感じたなら謝るよ。
ムス やってられるか。

    ムスリーヌ、去る。

ボソ 待ってよ。
 ムスリーヌ君。
 待っててば。

    暗転。
   

    明転
    数日後。
    前場面と同じ作業場風景。
    ボソマート、パン生地の塊を作業台に
    叩きつけている。
    傍らに立つムスリーヌ。
    
    
ボソ こんなかんじ?
ムス ああ。

    ボソマート、繰り返し叩き続ける。

ボソ そろそろいいかな?
ムス どれ?

    ムスリーヌ、生地に触れてみる。

ムス まだだ。
ボソ そう?
 あと十回?
 二十回くらいかな?
ムス まあ、二千回くらいだな。
ボソ え。
ムス 二千だよ。
 やれ。
ボソ はははは。
ムス いや、可笑しくないんだよ。
 やれよ。
 早く。
ボソ 本気じゃないよね?
 はは。
ムス 本気だ。
 笑うとこじゃない。
ボソ でも二千回も叩いたらどうなっちゃう?
ムス まあ、水分が全部飛んじまうだろうな。
ボソ そんなのおいしくないよね?
ムス じゃあ五千にするか。
ボソ どういうこと?
ムス どうせ駄目になるなら多い方がいいだろ?
ボソ なんの意味があるのさ?
ムス 意味なんて考えるな。
 うまいパンを作るなんて百万年早い。
 さあ、五千だ。
 ほら。
ボソ これじゃまるでいじめじゃない?
ムス まさにそうだ。
 センスがないならせめて耐えろ。
 オレもこうやって教わったんだ。
 だからこれ以外の教え方を知らない。
ボソ じゃあムスリーヌ君は五千回も叩いたの?
ムス ああ、いじめだってなにかの役には立つ。
 それともいじめならもう十分間に合ってるか?
ボソ なんだって?
 ボクが誰にいじめられてるって言うのさ?
ムス 自覚がないか。
 それはなによりだ。
ボソ もしかしてビアキスのこと言ってる?
ムス 終わりだ。
 この話の続きには興味がない。
ボソ 傍からはそう見えるのかもしれないね。
 確かにビアキスは時々ボクを利用する。
 でもボクのためにしてくれたこともあるんだ。
ムス そして更にお前は利用される。
 まあ、どうぞお幸せに。
ボソ これでも成長したんだ。
 だって、子供の頃はずっといじめられどおしで……。
ムス お定まりだな。
ボソ 仕方ないけどね。
 叔父さんの仕事を手伝っていたせいでいつも真っ黒だったから。
ムス 真っ黒?
 炭鉱夫かよ?
ボソ うぅん、煙突掃除。
 顔も体も服も煤だらけ。
 いくら洗っても落ちきらないし、またすぐ汚れるしね。
ムス で、はぐれ者か?
ボソ 飲んだくれの父親でね。
 ギャンブル好きで、おまけに盗人で。
 何度も捕まってる。
 だから僕には子供の頃からちゃんとした友達もいない。
 もちろん恋人だって……。
ムス そのせいにするな。
ボソ え。
ムス 安心しろ、お前には元来輝きがない。
 爽やかさがなく、退屈で、引っ込み思案だ。
 好かれる要素、人を惹きつける要素がまるでない。
ボソ やっぱりそうなのかな?
 そんなに印象が悪い?
ムス ああ、悪いなんてもんじゃない。
 立派に気持ち悪い。
 それだけのことだ。
 だからなにかのせいにするな。
ボソ そうか、いいこと聞いたよ。
 誰のせいでもない。
 なんのせいでもない。
 ボクはボクのせいでボクなんだ。
ムス ああ、自己完結だ。
 だからなにも恨むな。
 比べるな。
 存在を存在として受け入れろ。 
ボソ そうだね。
 ありがとう。
ムス さあ、そんなことより選べ。
 泣くか、耐えるか、反発するか。
 お前の場合は泣く方が向いてる。
ボソ あのさ、教わってはいるけど、一応ボクの方が年長なんだよ。
 おまえ、じゃなくて、せめて名前で呼んでもらえない?
ムス 名前?
 忘れたな。
ボソ うそだろ。
 ボソマートだよ。
ムス めんどくせえ奴だ。
 じゃあ、ボソボソ、早く泣けよ。
ボソ 急に泣けって言われてもさ……。
 しかもなんでボソボソってわざわざ繰り返すのさ。
 せめてボソにしてくれない?
 まずそうなパンみたいでいやだよ。
ムス ああ、クソまずそうだ。
 最高にお似合いだぜ。
 ボソボソ。
 はははは。
ボソ なんだか反発を選んでみたくなってきたんだけど、いいかな?
ムス 反発するのにあらかじめ断る奴はいない。
ボソ ああ、じゃあ、遠慮なく。
 で、どんなかんじで反発すればいいかな?
ムス 聞いてどうする。
 教わるのも教えるのも間抜け過ぎる。
ボソ ムスリーヌ君だったらどうする?
ムス オレに聞くな。
 自分の反発心を素直に爆発させろ。
ボソ 素直に……。
 でもパンを投げたりするのはよくないよね?
ムス だから冷静に考えるな。
 常軌を逸してみろ。
 パンでもなんでも投げてよこせ。
ボソ 投げるって、作業台に?
ムス 作業台に反発してどうする。
 対象はひとつ。
 お前をいじめる奴だろ?

    ムスリーヌ、距離をとって構える。

ムス ほら、ここだ。
 オレに向かって投げてみろ。
ボソ え。
ムス パン生地をちぎれよ。
 投げてみろって。
 なんだ、投げられねえのか?
 そうか、そうやって一生てめえの殻の中でジクジクと煮詰めてろ
 よ。
 豚肉の灰汁のようにな。
ボソ ムスリーヌ君……。
ムス なんだよ、ジクジク。
 気安く呼ぶな。
 我が名が汚れるぜ。
 はははは。
 泣けよ。
 いいから泣いちまえ。
 お前にとって最も相応しい感情表現だ。
ボソ よくも言ってくれたな。
 このっ。

    ボソマート、生地をちぎって
    ムスリーヌに投げつける。

ムス お。
ボソ このっ。

    ボソマート、続けて投げる。
    いずれも当たらない。

ムス はははは。
 もっと投げろ。
 そうだ。
 いいぞ。
 ジクジクからボソボソに格上げしてやる。
 もっと投げてみろ。
 ほら。
 はははは。
    
    ムスリーヌ、素早く立ち位置を変える。
    
ムス 今度はこっちだ。
 ボソボソ、投げろ。
 ほらほらほら。
 ひとつくらい当ててみろ。
 はははは。
ボソ 畜生。

    ボソマート、興奮し、大きな塊を投げ
    るがムスリーヌの頭上を遥かに越える。
    床ではないなにかに命中したことを
    予感するムスリーヌ。

ムス おっと。
 いかん、ヤボ用を思い出した。
 またな。
ボソ え、なにを思い出したって?
ムス 火にかけたままのケトルが叫んでる。
 けたたましくオレを呼んでやがる。
ボソ ケトル?
 どこのこと?
ムス オレに構うな。
 お前はこの後の難局に正面から立ち向かえ。
 これも試練だ。
 じゃあな。

    ムスリーヌ、去る。
    その逆方向からビアキスが現れる。
    顔にパン生地が命中して片目が見え
    ない。

ボソ ビアキス!
ビア どういうこった。
ボソ ごめんね。
 大丈夫?

    ボソマート、手元のタオルを持って近
    づく。

ビア ああ、問題ない。
 パン生地で大けがする奴はいない。
ボソ 本当にごめん。
 なんか、その、興奮しちゃって。

    ビアキス、タオルで顔を拭う。

ビア お前がいくら高揚したからってパン生地を投げるなんて想像
 が及ばない。
 しかし、現実というのはいとも簡単に想像を越えちまうもんだ。
 また例のムスリーヌか?
ボソ いや、ちょっとふざけ合っていてね。
 おちょくられたんで、つい。
 ははは。
ビア お前が最後の砦だったんだろうが、とんだ災難だよな。
 ペイザンの奴、お前を信頼している、お前しかいないって持ち上げ
 て面倒なことを回して来やがる。
 ムスリーヌについてなにも聞かされずに押し付けられたんだろう?
ボソ 前のチーフの知り合いだとかって……。
ビア ああ、前任のチーフが更生施設から義理で預かったって話だ。
 でもどうだか、怪しいもんよ。
 あのチーフのことだ、義理だと言いつつ裏で受託料を受け取って
 いるに違いない。
 厄介者を残して自分はさっさとトンヅラしやがって……。
ボソ でもパンの評判は良かったし。
 いい腕してるみたいだけど……。
ビア だが奴にはもっとも大事なものが欠けてる。
 社会性ってやつがな。
ボソ 食堂でなにか問題を起こしたのかな?
ビア 問題もなにも挨拶は出来ねえ、口のきき方は知らねえ、教え
 ても聞かねえ。
 人を怒らすこと、困らせることの天才だ。
 まあ、でも心配は無用さ。
 お前の辛抱強さは誰もが認めるほどだ。
 それにオレだってついている。 
ボソ ありがとう。
ビア ムスリーヌのあの人格にはなんらかの理由がありそうだ。
 奴を預かる身としてそれは知っておいた方がいいだろうな。
ボソ ムスリーヌ君をどうするの?
ビア 身辺を少し洗ってみようと思う。
 お前のためさ。
 言ったろ、オレがついてるって。
ボソ あ、ああ……。
ビア オレはペイザンとは違う。
 あいつは自分の立場が悪くなりそうなことには近づかない。
 そして人の手柄を自分のものにするエキスパートだ。
 腹黒い奴よ。
 おっと。
 噂をすれば、だ。
ボソ え。
ビア ペイザンだ。
 ほら、見ろよ。
 ああやって、一見すると労をねぎらっているようだがな。
 トカゲのしっぽを探してやがる。
ボソ トカゲ?
ビア ああ、サブリーダー候補だとかって昇進をちらつかせてな。
 いざというときに責任を負わせるためよ。
 もしかしてお前にも話が来たか?
ボソ いや……。
ビア まあ、気をつけろ。
 イエスマンに徹したら身が持たねえぜ。
 最低でも三回に一回は断れ。
 それくらいでちょうどいい。
 お、こっちに来やがる。

    ビアキス、ボソマートの背後に回る。

ビア (大声で)なんだって、ボソマート!
 捏ね方を伝授しろって!?
ボソ え。
ビア えじゃねえよ。(小声で)
 突っ立ってるな。
 手を動かせ。
 早く。
 顔を上げるな。
ボソ あ、ああ……。
ビア いいか、力の加減に神経を使うんだ。
 むやみにパンに逆らうな。
 対話をしろ。
 パンの心をつかむんだ。
ボソ パンのこころ?
ビア そうだ。
 力でねじ伏せようとするんじゃねえ。
 パンの身になれ。
 心で向き合うんだ。
ボソ う、うん、なるほど。
ビア パンはなんて言ってる?
ボソ え。
ビア 対話しろといったろ。
 パンの気持ちを聞いてみろ。
ボソ えーっと……?
ビア 耳を当ててみるか?
ボソ 違うよね?
ビア 当たり前よ。
 手のひらと指先で感じるのさ。
ボソ ああ……。

    ボソマート、懸命に捏ね続ける。

ビア おっと、あの野郎め……。
 やれやれ、あーあ。
 おい、やめだ。
 小芝居は終いだ。
 見ろ、奴は行っちまったぜ。
ボソ パンの身になって……。
 心で向き合って……。
ビア おい、ボソマート、もう行っちまったってば。
ボソ すごくいいアドバイスだね。
 力でねじ伏せるな。
 パンの身になれってね。
 とてもためになったよ。
ビア それは奴への当てつけよ。
 わざと聞こえるように言ってやったんだ。
 パンにたとえてな。
 そんなことよりもっとためになることを教えてやるよ。
 今度のチーフの人物像ってやつをな。
ボソ どんな人なの?
ビア まだ噂のレベルだが、相当な独裁者みたいだぜ。
 空軍士官学校を飛び級で出たんだとよ。
 いわゆるエリート軍人ってやつよ。
ボソ そんな人がどうしてここにいるんだろ?
ビア そこだよな。
 過去になにかやらかしたか……。
 絶対なにかあるはずだ。
 いいネタ持ってるぜ、きっと。
 知って得するレアなネタをよ。
ボソ 得って?
ビア 言わせるな。
 それよりどうだ? 
 一口乗らねえか?
ボソ つまりなにか弱味をにぎるってこと?
ビア だから言わせるな。
 想像のとおりだ。
 お前は仲間だ、安くするぜ。
 そして分けまえはたっぷりさ。
 な。
ボソ あ、ああ……。
ビア で、その前払いってわけじゃないが、これからランチでも一
 緒どうだ?
ボソ せっかくだけど、今日はちょっと……。
 いま手持ちがないんだ。
ビア 心配ない。
 ツケが利くさ。
 肉料理が自慢の店だ。
 パンも自家製、コーヒーのローストも絶妙だ。
ボソ へえ、いいところ見つけたんだね。
 ところで、えーっと、なんだっけ、さっきの?
ビア さっき?
ボソ ほら、親身になって考えろ、だっけ?
 あれ、パンの気持ちになって、だっけ?
ビア 言葉だけ覚えたって駄目だ。
 気持ちで向き合え。
ボソ あ、パンの身になれ。
 力でねじ伏せるな、だったね?
ビア 理屈じゃねえんだ。
 感覚を研ぎ澄ませろ。
 パンをパンと思うな。
 パンは生きてるんだ。
ボソ 生かすか殺すかがかかってるってことだね?
ビア ああ、すべて自分の匙加減さ。
 レシピなんてクソくらえだ。
 そうじゃなきゃオレたちは職人でもなんでもねえ、ただの勤め人
 でしかなくなるんだ。
 違うか?
ボソ うん、いまの言葉すごくためになったよ。
 忘れないうちにメモしておかなくちゃ。
ビア やめとけ。
 そして忘れろ。
 きれいに忘れちまって、その都度オレにランチをおごれ。
 たまにはディナーもな。
 じゃあな。
ボソ ああ、じゃあ。

    ビアキス、去る。
    ボソマート、手を動かしながら、虚空
    を見つめて暗唱している。
    暗転。


    明転。
    数日後。
    作業机、椅子が脇に寄せてある。
    ボソマート、モップ掛けをしている。
    しばしののち、ムスリーヌ、現れる。

ボソ やあ、おはよう。
ムス ……。
ボソ 掲示板を見てきてくれない?
ムス 掲示板?
ボソ これからの作業指示はすべて掲示板に記されるんだって。
 だから毎朝チェックするようにって、さっきペイザンが伝え回っ
 てた。
ムス で、その指示によるとお前は一日掃除当番ってわけか?
ボソ 午前はフロアと倉庫の掃除。
 午後からパンの配送なんだ。
ムス 掃除と配送?
 なんだそれ?
ボソ そうじ係のおばさんと運送係のおじさんが辞めたらしくてね。
 なんとか今日中に終わらせて明日は違う指示が出るようにがんば
 るよ。
 
    ムスリーヌ、脇の椅子にかける。    

ムス そのモップは気を利かせたつもりか?
 だったら意味ないぜ。
ボソ 掲示板を見てくれないかな?
 業務指示なんだ。
ムス 必要ない。
 どうせやらねえんだから。
 掃除と運搬?
 奴隷かよ。
ボソ 床の清掃やパンを運ぶことが奴隷の仕事だって言うの?
ムス 言ったろ?
 信念を曲げて従うのは奴隷と同じだって。
ボソ とにかくこれはペイザンからの伝言なんだ。
 掲示板を見るように伝えてくれってね。
ムス 知ってんだろ?
ボソ え。
ムス 見たんだろ?
 オレの役目を。
ボソ ……。
ムス なに黙ってんだ?
 え?
ボソ ああ、見たよ。
ムス じゃあ言えよ。

    沈黙。

ボソ 午前はボクと同じで、フロアと倉庫の掃除。
 午後は、えーっと……。
ムス あ?
ボソ その、午後は、えーっと、トイレの掃除を……。
ムス トイレ?
ボソ うん、そう書いてあった。
ムス ふざけるな。
ボソ きっと交替制なんだよ。
 次はボクの番じゃないかな。 
 だから、ちょっと我慢してくれれば……。
ムス 気休めはやめろ。
ボソ じゃあ配達の方をやってくれない?
 ペイザンに替えてもらえるように頼んでみるからさ。
ムス 馬鹿にするな。
ボソ え。
ムス お前もだ。
 なぜオレに施そうとする?
 馬鹿にしている証拠だ。
ボソ 一番の新参者だし、いろいろと不慣れだろうと思うからさ。
 それに一人だけ拒むのはキミの立場としてもよくないだろうし。
ムス オレは孤立を恐れない。
 仲間と一緒じゃなきゃ昼メシも食えない連中から外されるなら大
 歓迎だ。
ボソ でも、キミがやらなきゃ誰かにしわ寄せが行く。
 だから替わるって言ったんだ。
 それもいけないならどうすればいい?
ムス オレが従わなきゃお前に責任が及ぶってだけだろ?
 損得だけで生きてるくせしやがって、仲間のためみたいに言うな。
ボソ どうしてそう人を困らせることばかり言うのさ?
ムス 困れよ。
 お前らは飼いならされた羊だ。
 羊に対して罪悪感を抱く奴はいない。
ボソ それってもしかして自分が一番偉いってこと?
ムス あ?
ボソ そう言っちゃ悪いけど、文句ばかり並べて尊敬された人はい
 ないと思う。
 どんなに仕事が出来てもね。
ムス おい。
    
    ムスリーヌ、ボソマートに近づく。

ムス 消そうか、一ぺん。
 なあ?
 消してやろうか?
ボソ ……。
ムス お前なんかオレの気持ちひとつでなんとでもなる。
ボソ どうできるっていうのさ?
ムス 数秒で片付く。
ボソ 出来るもんか。

    ムスリーヌ、懐からナイフを出す。

ムス 試すか?(刃を出す)
ボソ ……。
ムス うん?
ボソ いや……。
ムス いや?
 いやか?
 え?
ボソ ……。
ムス なんとか言ってみろ。
ボソ 出来るもんか。
ムス なんだと?
ボソ 出来るもんか。
ムス ……。
ボソ 出来るもんか。

    ボソマート、刃先を凝視する。
    沈黙。
    ムスリーヌ、刃を仕舞う。

ボソ ほら。
ムス なんの得になる。
 手が汚れるだけだ。
ボソ 損得で生きないんじゃないの?
 そう聞いた気がするけど。
ムス お前はオレの視界にいない。
 消すまでもない。
 二度とわめくな。
 耳が疲れる。
ボソ ボクが配達から戻るまで待っててもらえない?
 いいね、今日はボクが替わるから。
ムス 誰が頼んだ?
ボソ ボクからのお願いだ。
ムス お前みたいな卑屈な奴ははじめてだ。
ボソ ムスリーヌ君のプライドの高さを見習いたいよ。
 きっとキミとボクの中間くらいがちょうどいいんじゃないかな。
 どうだろう?
 お互い一歩ずつ歩み寄るっていうのは?
ムス 断る。
ボソ 一歩ずつでいいんだ。
ムス 言ったろ?
 オレの視界にお前はいない。
ボソ じゃあ入れてくれない?
 その視界に。

    ボソマート、ムスリーヌの肩を掴む。

ムス 触るな。

    ムスリーヌ、ナイフの柄でボソマート
    のボディーを激しく突く。

ボソ うっ。
ムス お前こそ無理しないで休んでな。

    ボソマート、体をくの字にして苦しむ。
    ムスリーヌ、去る。
    ムスリーヌが去った方向に人影。
    ボソマート、察知して場を繕う。

    ビアキス、現れる。

ビア どうかしたか?
ボソ あ、いや、なにも……。
ビア 額に冷汗が浮かんでるぜ。
ボソ うん、モップ掛けしてたから……。
ビア 二人で話がしたくて様子を伺ってたんだ。
 奴がまた暴れたみたいだな?
ボソ いや、本当になにもないよ。
ビア 例の掲示板の役務についてだろ?
 あれはオレも腹が立った。
 鷹揚なオレですらな。
ボソ でも仕方ないよね。
 こんな時だから協力し合わないと。
ビア はははは。
 二人いっぺん辞めたって?
 あり得ねえ。
 あれは切られたんだ。
ボソ それってクビってこと?
ビア ああ、冷徹チーフが早速鞭を振ってきやがった。
 でもこれは手始めだ。
 さらに切り込んでいくだろうよ。
 掲示板はそのための餌だ。
ボソ 餌?
ビア 難色を示した奴は次回の解雇リストに載ることになる。
 腰巾着野郎のペイザンが感触を確かめに来るだろう。
 さすがに正面切って反抗する馬鹿はいないだろうけどな。
ボソ ……。
ビア なあ、ボソマート。
 ムスリーヌを救いてえか?
ボソ う、うん……。
ビア 奴を留めておきたいか?
 ペイザンに頼まれたにしろ状況は変わったし、面目は保てたよな?
ボソ でも、彼は有能だし……。
ビア だがこのままじゃ間違いなく体制の思惑にはまる。
 まあこれも摂理ってやつか。
 だがオレも奴を留めたい。
 このまま見捨てるには惜しい逸材だしな。
ボソ え。
ビア ムスリーヌの素性を調べたんだが、奴は血統書付きのくせ者
 だったぜ。
ボソ 血統書?
ビア つまり血筋ってやつよ。
 奴の親父がポイントだ。
 誰だと思う?
ボソ ムスリーヌ君のお父さん?
ビア 当ててみな。
ボソ そんなことわかるわけないよ。
ビア いいから考えてみろ。
 知らないやつはいない。
 もちろん悪い意味でな。
 階級至上、格差奨励、偏見、偏愛、偏向の差別主義者だ。
ボソ ……。
ビア どうした?
 わかったか?
ボソ いや。
 その人のことずいぶんと嫌ってるみたいだね?
ビア オレだけじゃない。
 みんな嫌ってる。
ボソ みんな?
ビア ああ、貴族や一部の財産家以外はな。
 嫌うか、恨むか、それ以上かだ。
 私利私欲にまみれた政治介入でどれだけの人間が虐げられ、泣か
 され、苦しんできたことか。
 まあ、流刑同然で今は息をひそめて余生を送ってるだろうがな。
 ザマみろだ。
 さあ、わかったろ?
ボソ それ、もしかして……。
ビア うん?
ボソ もしかして、ロデブ……。
ビア そう、もちろん正妻の子じゃないけどな。
 何十人目かの妾の子さ。
ボソ ロデブ王、ムスリーヌ君が……。
 ロデブ王の子供なの?
ビア 王は余計だ。
 今やただの親父だからよ。
 ロデブの親父。
 あの一族にはろくな噂がない。
 もっとも自分の子供の数すら覚えてないらしいからな。
 まともなのが育つわけねえけど。
ボソ 本当なんだね?
ビア ああ。
 なんなら確かめてみるか?
ボソ どうやって?
ビア それとなくカマをかけてみろ。
 敏感に反応するはずだ。
 奴はこの事実を誰にも知られたくない。
 下手に漏らしたりしたら命の保証はないぜ。
ボソ え。
ビア それが原因で以前にも問題を起こしている。
 つまりこれを生かさない手はない。
 わかるよな?
ボソ いや、その、ごめん、察しが悪くて。
 生かすって?
ビア ムスリーヌは使える奴だってことさ。
 噂の出所をペイザンに設定する。
 で、どうなる?
ボソ ペイザンを嫌いになる……?
ビア そう、更にペイザンは続ける。
 ムスリーヌの暴力性、情緒不安、自閉、屈折、社会性のなさは
 ロデブ家代々の呪われた血筋を受け継いだものだ、スタッフ全
 員、心の門戸を固く閉じ、悪魔の侵入を防ぐようにとな。
これでどうだ?
 間違いなく奴の導火線に火がつくだろうよ。
ボソ でもペイザンは否定するだろうね。
ビア しかし一旦火がつけばもう止められない。
 奴は逆上し、ペイザンを討つ。
 これは天罰だ。
ボソ 天罰?
ビア そう、あいつは平気で魂を売る男さ。
 もちろん仲間だって売る。
 まるで牛や豚を仲買に売るようにな。
ボソ どうしてそんなにペイザンを嫌うの?
ビア ほう、お前は奴に催眠術にでもかけられたか?
 それともただの馬鹿か?
ボソ 少なくとも彼からひどいことをされたことはないけど……。
ビア お前がそれだけ純粋だってことだ。
 人を疑うことを知らないってのはある意味幸せだな。
 でも誰かが手を下さなけりゃその幸福な時間は続かない。
ボソ でもムスリーヌ君はどうなっちゃうの?
ビア 奴は牢屋に戻るだけだ。
ボソ 戻るって?
ビア 三回入ってるらしい。
 奴はロデブの子だってことをこの上なく不名誉に思ってる。
 それに加えてあの癇癪持ちだ。
 頭に血が上ると抑えがきかねえ。
 そんな奴はもともと更生なんて無理なんだ。
ボソ でも、だからといって……。
ビア かわいそうか?
 でも考えてみろ。
 これは仲間のためだ。
 奴がやらなきゃオレがペイザンを始末することになるだろう。
 お前はその方がいいか?
ボソ いや、それは……。
ビア そうか、お前はじつはとんだ利口者だな。
 下手すりゃペイザン以上だぜ。
 汚れ役をすべてオレに任せ、善人に徹し、ペイザンの後釜に居座
 るつもりだ。
ボソ ひどいよ、そんなわけないだろ。
ビア じゃあ片棒を担げ。
 ペイザンが討たれ、ムスリーヌは牢屋に入る。
 職場に平和と活気が戻り、オレはお前をサブリーダーに推す。
 そしていずれリーダー候補の筆頭に押し上げる。
 二度ならず三度オレに感謝するはずだ。
 どうだ?
ボソ ……。
ビア 新しいチーフのことを案じてるのか?
 大丈夫だ。
 オレはどんな難敵の懐にだって潜り込める。
ボソ ペイザンだ。
ビア なに?

    ビアキス、素早くモップ掛けをする。
    ペイザン、現れる。

ペイ おはよう。
ビア やあ。
ペイ 今日の持ち場はここ?
ビア いや、ただの通りがかりの助っ人さ。
 ムスリーヌの奴が目にゴミが入ったって。
 だから洗面所から戻る間だけのさ。
 ははは。
ペイ みんなには負担がかかって申し訳ないと思ってるよ。
ビア なに言ってる。
 掃除は協調性を養う最良のワークだ。
 チーム力向上に間違いなく寄与する。
ペイ 怪我の功名になればいいけどね。
ビア ところで少し痩せたんじゃないか?
 くれぐれも無理はしなさんなよ。
ペイ ありがとう。
 ビアキスもオーバーワークにならないようにね。
ビア おっと。
 人の手伝いにかまけてる場合じゃなかった。
 じゃあな、ボソマート。
 ムスリーヌもすぐ戻るだろうよ。
ボソ あ、ああ、悪かったね。

    ビアキス、去る。

ペイ やっぱり反対因子はいるようだね。
ボソ え。
ペイ いま見たら掲示板に大きく、「クソ」と書かれていた。
ボソ ……。
ペイ まあ、ある程度の予想はしてたけどね。
 早速だけど、手を打つことにするよ。
 腐敗が広がると厄介だからね。
ボソ 犯人捜しをするってこと?
ペイ いや、連帯責任で今日の休憩時間をすべてカットする。
 それから、対策として命令形態を一新する。
 これはかねてからのチーフの意向なんだ。
ボソ どう変わるの?
ペイ 絶対服従の上下関係にする。
 上司の命令は絶対、背くことはもちろん、意見した者は重罰処分
 する。
ボソ ずいぶん厳しくなるんだね。
ペイ 雇用契約書をあらためてごらんよ。
 そもそも主従関係は絶対的と謳っている。
 命令制度は予告なく変更できるし、協議の必要もない。
ボソ それじゃあみんな辞めたくなるんじゃないかな?
ペイ 今後は自己都合による辞職は多額の違約金を科すことにする。
 ほぼ一生分の賃金に相当するくらいのね。
 もちろんこの変更も契約上の問題はない。
ボソ ……。
ペイ ところで、キミをサブリーダーに推薦するって言ったよね?
 その件については一任されていてね。
 たったいま、キミをサブリーダーに任命する。
 大変だけどよろしく頼むね。
ボソ え、あ、それは、どうも……。
ペイ おめでとう。
ボソ あ、ああ、ありがとう。
ペイ このたびの命令形態の刷新に伴って、ボクの直属の部下とし
 て三人のサブリーダーをおくことにした。
 そのうちの一人がキミだ。
 ほかの二人に負けないようにがんばってくれ。
ボソ ああ、うん、がんばるよ。
ペイ そしてキミには直属の部下を二人つける。
 両腕として動かしてほしい。
ボソ 二人って、誰?
ペイ サブリーダー、キミは選ばれた。
 そして今度はキミがその二人を選ぶんだ。
ボソ ボクが?
 いや、でも、考えたこともなかったから……。
ペイ キミの命令は絶対的なものになる。
 誰も逆らえない。
 考えておいてくれ。
ボソ あ、あの、いつまでに?
ペイ 早い方がいい。
 チーフは即効性を求める人だからね。
ボソ う、うん、わかった。
ペイ ひとつアドバイスすると、一人は汚れ役に徹しきれるマッチョ
 タイプがいい。
 もう一人は、参謀的なリサーチャータイプがいいんじゃないかな。
 そしてこの二人とキミとの上下関係はきっちりとけじめをつける
 ように。
 いいね。
ボソ あ、ああ……。
ペイ じゃあ早速だけど、サブリーダーとしての初仕事だ。
 フロアーのメンバーたちにさっき言った今後の命令形態について
 説明をしておいてくれ。
ボソ え、あ、ボク一人で?
ペイ そう、今日の休憩時間をすべてカットするってことも忘れず
 にね。
ボソ キミは?
ペイ ボクはこれからチーフと打ち合わせがある。
ボソ そう……。
 心細いけど、がんばってみるよ。
ペイ あと、これを。
 
    ペイザン、懐からキーホルダーを取り
    出し、ボソマートに手渡す。

ペイ 一つはサブリーダー専用のロッカーだ。
 今日から使ってくれ。
 あとの二つは、材料倉庫と帳簿の保管庫だ。
 これからはキミに管理を任せるよ。
ボソ ロッカーに材料倉庫と帳簿保管庫……。
ペイ ちなみにロッカー以外の二つの鍵は複製されたみたいだね。
ボソ え。
ペイ 小麦粉がたびたび持ち出されているんだ。
 恐らく転売目的だろう。
 帳尻が合うように帳簿も書き換えられている。
ボソ 誰の仕業かわかってるの?
ペイ いや、ただもう少し様子を見よう。
 ある程度の被害額を稼がせてから特定した方が罪も重く出来る。
 この件もキミに任せるよ。
 犯人の処遇についてもキミが決めてくれ。
ボソ 処遇って……。
ペイ 見せしめに磔にするか、生涯無報酬、つまり奴隷として一生
 使うかってとこだね。
ボソ 犯人は気づいてないんだろうね、バレてるってことを。
ペイ ああ、だからその気になればいつでも尻尾は掴めるさ。
 焦ることはない。
 それから、サブリーダーのロッカーには飴と鞭が入っている。
 上手く使い分けて舵取りをしてくれ。
 鞭は部下に振らせるといい。
 キミは温厚な人格者であった方が人望を集められる。 
ボソ 飴って?
ペイ 飴は報奨。
 ドリンクのクーポン券さ。
 この界隈のパブで使える。
 士気を高めるために時には気前よく出すといいよ。
ボソ ……。
ペイ じゃあ頼んだよ。
ボソ あ、あの、ペイザン。
 さっきの部下を選ぶって話だけど、それって、やっぱりボクが選
 ばなきゃいけない?
ペイ 他人に任せれば気は楽かもしれないけど、それじゃあ逃げ道
 を作ることになる。
 いずれキミもリーダーの道を歩むことになるだろうし、自ら背負
 うことを避けない方がキミ自身のためにもなると思う。
 どうかな?
ボソ うん、そう、そうなんだろうね、わかった。
ペイ じゃあ。

    ペイザン、去る。
    ボソマート、ビアキスから受け取った
    鍵を取り出す。
    鍵を見比べる。

ボソ 磔か奴隷か……。

    暗転。
    暗転中、闇の中でテーブルをたたく音。
    明転。

ビア 見損なったぜ、ボソマート!
 お前、いつから魂を売るような奴になった?
ボソ ……。
ビア 何とか言ったらどうだ。
 え?
ボソ もう少し冷静になってくれなきゃ話も出来ないよ。
ビア オレが冷静じゃないって?
 それはお前が正気じゃねえからだ。
 目を覚ませ、ボソマート。

    ビアキス、ボソマートの胸ぐらを掴み
    あげる。

ボソ 目は覚めてるし、正気のつもりだよ。
ビア いや、お前はもう本来のお前じゃない。
 悪魔に心を支配されちまってる。
 目覚めろ。
 なあ、おい。
 悪魔よ、立ち去れ。
 
    ビアキス、ボソマートの体を揺さぶる。
    
ボソ やめてくれ!
ビア 悪魔め。
 悪魔め。

    ビアキス、更に強く揺さぶる。

ボソ やめてくれ。
 やめろ!

    ビアキス、動きが止まる。
    ボソマート、凍りついたビアキスから
    離れる。

ボソ ペイザンに言われたとおりのことを皆に伝えた。
 ビアキスがこんな反応をするんじゃないかと心配だった。
 でも皆と同じように黙って持ち場に戻っていった。

    ビアキス、笑顔で近寄ってくる。

ボソ 翌日ビアキスはやって来た。
ビア サブリーダー、就任おめでとう。
ボソ ありがとう。
ビア オレは嬉しいぜ。
 キミが認められてよ。
ボソ キミだなんて……。
ビア だってそうだろ。
 キミは幹部の一員だ。
 もうお前なんて呼べる仲じゃない。
 これからはこの命を張ってサブリーダーのサポートをさせてもら
 う。
ボソ あ、ああ、それは心強いな。
 ところで、ビアキス、いまキミが言ったサポートするって話だけ
 ど、あらためてボクからお願いしたいんだ。
ビア と言うと?
ボソ 力を貸してくれないかな。
 ボクの専属として支えてもらいたいんだ。
ビア つまり部下になれと?
ボソ 指名するように言われててね。
 どうかな?
ビア もちろん喜んで。
 サブリーダーのためなら火の中、水の中、油の中さ。
 はははは。
ボソ よかった。
 なんだかいっぺんに肩の荷が降りた気がするよ。
ビア 上からの命令に難色を示す奴がいたらオレが首根っこを掴ん
 でやるさ。
 キミは常ににこやかな表情でオレの報告をうけられるだろう。
ボソ ビアキスが力になってくれれば百人力だ。
ビア 今度のチーフは費用削減の亡者だ。
 我々にとって歓迎すべき人物じゃないが、これほどわかりやすい
 方針もない。
 つまりそれ一点に絞ればいいってわけさ。
 キミが更にのぼり詰めるのを加速させるにはね。
ボソ 点数を稼ぐってこと?
ビア チーフやペイザンが切りたがってる名前をそれとなく聞き出
 してくれ。
 オレはそいつらに濡れ衣を着せたり弱味を突いたり圧力をかける。
 自ら辞職を願い出れば願ったり叶ったりだ。
 キミはその手柄を鼻高々に上に報告できるってわけさ。
ボソ ちょっと強引な気がするけど……。
ビア これはトップシークレットだが、キミだから言う。
 じつはチーフはロデブの遠縁にあたることが分かった。
 ロデブの失脚に伴って彼も身を落としたのさ。
 エリートコースから真っ逆さまよ。
 ムスリーヌ同様これは本人にとってこの上なく不名誉な話だ。
 つまり使える。
ボソ まさかそれもペイザンのせいにするってわけじゃ……。
ビア そのまさかさ。 
 ペイザンをはじめキミ以外のサブリーダーの間で内通しているこ
 とにする。
 ついでに、そう……。
 冷徹無慈悲な現実主義者、極度の守銭奴、管理者不適格のチーフを
 どうやって引きずりおろすかをサブリーダーたちが画策してるとい
 う尾ひれをつける。
ボソ でもペイザンはムスリーヌ君の時にって……。
ビア それさ。
 ペイザンが漏らしたとなれば、二人の信頼関係は終わる。
 もちろんペイザンは否定するだろう。
 証拠はオレが揃える。
ボソ 証拠?
ビア 証言をでっち上げるさ。 
 奴は反論しようにも出来ない。
 なぜか?
 ムスリーヌに討たれるからさ。
 真相を確かめようにも奴はこの世にはいない。
ボソ ああ……。
ビア 二人のサブリーダーは間違いなく干されるだろう。
 ただ、このプランはタイミングが肝要だ。
 そしてペイザンを討ち損じるわけにはいかない。
 ムスリーヌの怒りを爆発させるタイミングをうまく合わせれば、
 キミの時代は思ったより早く来るってわけさ。
ボソ で、ボクはキミに一生頭が上がらないと……?
ビア オレはあくまで縁の下の力持ちだ。
 ここの風通しが良くなることだけが望みさ。
 仲間が本音で議論し、時には助け合える、向上心と思いやりのあ
 ふれる職場になることだけがね。
 キミも同じじゃないか?
ボソ そのためには犠牲になる者が出ても仕方ないのかな?
ビア ムスリーヌのことかい?
 奴は根っからの一匹狼さ。
 調和や共生なんて考えは持ち合わせない。
 そんな奴でもなにかの役に立てる唯一の機会を与えてやれる、そ
 う考えればいいのさ。
ボソ でも人は変われるんじゃないかな?
ビア 変われる?
 あのムスリーヌが?
 はははは。
 そこがキミのいいところさ。
 しかし理想家すぎないかな?
ボソ じつは彼をもう一人の部下にしようと考えているんだ。
ビア 鉄砲玉を部下にね……。
 確かにキミは変わった。
 サブリーダーらしい顔になったよ。
 しかしムスリーヌにかぎってそれはないだろう。
 奴は変わらない、変えられない。
ボソ ところで以前キミから預かった鍵なんだけど……。
ビア 鍵?
ボソ ひとつ確認しておきたいんだ。
 なぜボクに預けたのかってことを。
ビア オレが鍵を預けたって?
ボソ キミを片腕として信頼したいからこその確認なんだ。
 なんの鍵だか思い出せないって言ってたよね?
ビア ああ、あれか……。
 えーっと、そう、確か拾ったんだ。
 ははは、なんの鍵だか思い出せないはずだ。
 それがどうかしたかい?
ボソ あれは材料倉庫の鍵だったよ。
ビア へえ。
 じゃあ困ってたろうな。
ボソ そうでもないよ。
 複製だったからね。
 誰かが小麦粉を持ち出してるってペイザンが言ってたよ。
ビア 小麦粉を……?
ボソ まさか、いざというときにボクに罪を被せるために預けたん
 じゃないよね?
 これは疑っているんじゃない。
 確認しておきたいんだ。
ビア 罪を被せる……?
 よしてくれ。
 オレはなんの鍵だったかも知らなかったんだ。
ボソ もう一つの方の鍵も?
ビア もう一つとは?
ボソ 帳簿の保管庫。
 持ち出した小麦粉の帳尻を合わせてあるんだって。
ビア なんのことだかさっぱり……。
ボソ ペイザンはもう少し泳がせようって言ってた。
ビア オレは鍵を拾っただけさ。
 何も知らない。
 それにオレはキミの片腕だ。
 むしろオレが進んで被るさ。
ボソ ありがとう。
 キミの気持ちはわかった。
 悪かったね。
 この件は任せるよ。
 犯人を捕らえて突き出すか、教え諭して改心させるか、キミ次第
 だ。
ビア あ、ああ、そう、盗みは確かによくない
 が……。
 魔がさすことは誰だってある。
 むしろ悔い改めて仕事に打ち込ませた方が、本人にとっても職場
 にとってもベストかもしれないな。

    ムスリーヌ、現れる。

ボソ やあ。

    沈黙。

ビア どうした?
ムス お前に用がある。
ビア あ?
 オレに?
ムス ああ、出ろ。
ボソ どうしたの?
ムス お前は関係ない。
ビア 急に来て勝手なこと言うんじゃねえよ。
ボソ ビアキスになんの用?
ビア いいよ、行ってやる。
ボソ 駄目だよ。
 聞かせてくれ。
 ムスリーヌ君、そこへかけて。
ムス そんな暇ねえんだよ。

    ムスリーヌ、懐から拳銃を出す。
    銃口はビアキスに向けられている。

ビア や、やめろ……。
ボソ 待って、ムスリーヌ君。
 一体なにがあったの?
ムス 深く考えるな。
 気分だ。
 いまのオレの。
ビア どういうことだ?
 なぜオレが。
ムス だから気分だって言ったろ。
 お前をやりたい気分、それだけだ。
ボソ 落ち着くんだムスリーヌ君。
ムス オレは冷静だ。
 脈拍だってお前らの半分だろう。
ビア 頼む、教えてくれ。
 オレには撃たれる覚えがねえんだ。
ムス オレも特に撃つ理由はねえ。
 辻褄が合ってるじゃねえか。
ビア フーガスだな?
 そうだよな?
 フーガスがなんか言ったんだろ?
ムス 覚えがねえって言ったばっかりだよな?
ビア あいつの言うことは全部ガセだ。
 信じるな。 
 オレを恨んでやがるんだ。
 心当たりがある。
 それでお前の怒りを利用しようとしたんだ。
 汚ねえ奴さ。
ムス じゃあどんなガセだって言うんだ?
 そこまで言うなら見当がついてんだろ?
ビア ……。
ムス ん?
 聞いてんだよ。
ビア そ、それは……。
ムス 考えるな。
 作り話は聞きたくねえ。
 フーガスはお前からいろいろと聞いたらしいけどな。
 まあそれも今更どうでもいいことだ。

    ムスリーヌ、撃鉄を起こす。

ビア 待て。
 撃つな。
 フーガスがなにか言ったとしたら、それはオレから聞いたんじゃ
 ない。
 ペイザンからだ。
ムス はははは。
ビア 本当だ。
 オレもペイザンから聞いたんだ。
ムス じゃあ答え合わせだ。
 言ってみろ。 
 ペイザンからのガセネタってやつを。
ビア お前に関する噂だろう?
ボソ ムスリーヌ君、もうよそう。
ビア フーガスはなんて言ったんだ?
ムス お前は質問出来る立場にない。
 言えよ。
 ペイザンからなにを聞いた?
ビア それは……。
ムス あ?
ビア ムスリーヌは、ロデブの子だと……。
ムス ほう。
ビア 怒らないでくれ。
 オレは聞いただけだ。
 誰にも漏らしてない。
ムス はははは。
 怒らせようと画策した奴が怒らないでくれか。
 笑えるぜ。
ボソ もうよしてくれ。
 フェアーじゃないよ。 
 こんな一方的なこと。
ムス 一方的でアンフェアか……。
 怒りに任せてこいつをやりに来た。
 その怒りを利用しようとした奴はフェアーか?
ビア 違う。
 フーガスにはめられてるんだ。
 オレは誰にも漏らしていない。
 神に誓う。
 ペイザンの奴、オレに口封じしておきながらフーガスにも話して
 いたのさ。
 あの二人は裏でつながっている。
 それにフーガスはオレを消したがってた。
 そういうことさ。
 なあ、わかってくれ。
ムス 答え合わせは終わった。
 すべて聞いた通りだった。
 お前の口からペイザンの名が出ることもな。

    ムスリーヌ、狙いを定める。

ビア やめてくれ。
 助けてくれ。
ムス 帳簿の保管庫の鍵をフーガスに預けたってな?
 罪を被せるつもりがとんだしっぺ返しをくらったもんだ。
 浅はかな企みだ。
 はははは。
ボソ ムスリーヌ君は人を殺したことがあるの?
ムス なに?
ボソ ないよね?
 あるなら知ってるはずだものね。
 一生苦しむってこと。
 その苦しみは時間が経っても薄れない。
 むしろどんどん増していくってこと。
ムス 聞いた風なこと言いやがって。
ボソ 叔父さんがそうだったんだ。
 三人殺したって。
 戦争でね。
 敵の捕虜だって。
 黙って手を合わせて、懇願したらしいんだけどね、上官の命令は
 従うしかないわけでさ。

    沈黙。

ボソ 叔父さんはいつまでも悔やんでいたよ。
 結局そのことで自分の人生を棒に振ってしまったんだ。
ムス それがどうした?
ボソ そうか、ムスリーヌ君はその覚悟が出来てるってことなんだ
 ね。
ムス お前ならどうする?
 こいつの言うことを信じるか?
ボソ わからない。
 誰を信じていいのか……。
 だから、ボクならとりあえず目前のビアキスを撃つだろうね。
ムス ほう。
ビア ボソマート!
ボソ それからフーガスを撃ち、最後にペイザンを撃つ。
 疑わしきは消せってわけでね。
 三人のうちの誰かは浮かばれないだろうけど、その罪滅ぼしには
 余りあるくらいの地獄が待っている。
 一時の腹いせのために一生を棒に振る。

    ボソマート、目を閉じ、手を合わせて
    跪く。

ムス なんの真似だ?
ボソ 捕虜ってこんなかな。
ムス 頭がどうかしちまったか?
ボソ ボクもいまキミの噂を聞いた。
 だからもう部外者じゃないよね?
ムス ほう、そりゃなんだ、友情の一種か?
ボソ そんなの知らないよ。
 ただ、目の前で人が殺されて、キミもやがて処刑されて、
 それで正気を保っていられる自信がないんだ。
 だから誰かのためじゃない、自分のためだよ。
 一人で辛い思いをしたくない。
ムス 自分のため……。
 誰がお前のためになんか撃つかよ。
 勝手に苦しみな。

    狙いをビアキスに定める。

ビア や、やめてくれ。
ムス お前のクロは確定だ。
ビア お願いだ。
 信じてくれよ。
 オレたちは、仲間じゃねえか。
 なあ?
ムス 仲間だ?
ビア ああ、だからわかるだろ?
 オレがどうしてこういう目に遭うのか。
 理不尽な役目を担うのか。
 オレも同じ私生児だ。
 代議士の浮気相手との間に出来た子さ。
 女ぐせが災いしてすぐに失脚したけどな。
 母親は生んだことを後悔したらしく、すぐにオレを捨てやがった。
ムス それがどうした?
 さっぱり共感出来ねえな。
ビア お前ならわかるはずさ。
 歓迎されずにこの世に生を受け、愛されずに育った奴の気持ちが
 な。
 人を本気で信じることが出来ねえんだ。
 誰に対しても懐疑的になっちまう。
ムス 重度の被害妄想だな。
ビア じゃあどうしてオレなんだ?
 え?
 こんな目に遭わされると結びつけたくもなる。
 でもそれが人情ってもんだろう?
ムス 知るか。
 私生児?
 それが切り札か?
 安心しろ、お前はそもそも人望がない。
 それだけだ。
 そういう奴に限ってなにかのせいにしたがる。
ビア 人望がなくて悪かったな!
 だがこれは事実だ。
 オレは陥れられた。
 そしてお前は利用された。 

    ビアキス、低く嗚咽を上げる。

ビア ペイザンの奴が全部仕組んだんだ。
 お前の秘密をオレに話し、同時にフーガスに話し、フーガスがオレ
 を消したがっていることに乗じ……。
 お前の怒りに火をつける策を講じた。
 オレは殺され、お前はまともに日を浴びることが出来なくなる。
 オレたちの悲劇を肴にペイザンたちは祝杯を交わすだろうよ。

    ビアキス、泣き崩れる。
    ムスリーヌ、銃口を下げる。
    そしてゆっくり遠ざかる。

ムス ペイザンか……。
ビア そうだ、ペイザンだ。
ボソ ムスリーヌ君、どこへ?
ムス どこもかしこも腐りきってやがる。
ボソ え。
ムス カビの生えたオレンジだ。
 ひとつ腐ると木箱の中でどんどん連鎖しやがる。
 わからねえか?

    ムスリーヌ、去る。

ボソ ムスリーヌ君。

    沈黙。

ビア なにが腐ったオレンジだ。
 馬鹿が、まんまと掛かりやがった。
 しかし怪我の功名だ。
 これで早々にキミの時代が来る。
 ははは。
ボソ 腐ったオレンジ……。
ビア どうだい?
 まさに馬鹿と鉄砲玉は使いようってわけさ。
 それにしてもフーガスの野郎、裏切りやがって……。
 オレを消して借金をチャラにしようとしやがった。
ボソ 借金?
ビア 奴は根っからのギャンブル狂さ。
 負けるとすぐ熱くなる。
 だから掛け金を貸して、高い利子を取ってやった。
 せっかくのドル箱が、クソッ。
 小麦粉の件だってすべて奴が仕組んだんだ。
 オレはなにも知らない。
ボソ ……。
ビア 悪いが少々持ち場を離れるよ。
ボソ フーガスを捕まえに?
ビア 奴はもうどこかに姿を消しただろう。
 オレが難を逃れたことを素早く察知して。
 それよりチーフがロデブの遠縁にあたるという情報をすぐにばら
 まきたい。
 ペイザンから二人のサブリーダーを経由して広まったというストー
 リーでね。
ボソ ビアキス、ボクは間違えていた。
 ムスリーヌ君を変えようだなんて。
ビア ははは。
 あんな奴を部下にするくらいなら暴れ馬を半日で手懐ける方が遥
 かに楽ってもんだ。
 まあでも結果オーライさ。
 ペイザンは間もなく撃たれる。
 一刻も猶予がない。
 じゃあ。
ボソ 変わらなきゃならないのはこっちの方だ。
ビア 万事うまく運ぶさ。
 オレも最善を尽くす。
 悪い噂は良い噂の数十倍は広まるのが速い。
 十分間に合う。
ボソ 彼はペイザンを撃ったりしないよ。
ビア なんだって?
ボソ 間違いない。
ビア 一体どうしたんだい?
 なにを根拠に、そんな?
ボソ 銃身を見なかった?
ビア え?
ボソ さっき彼が構えた銃身を。
 見たかい?
ビア いや……。
ボソ まったく震えてなかった。
 あんなに目の前で人を撃とうとしているのに。
ビア 奴は元来まともじゃない。
 人の心を持ってないのさ。
ボソ いや、あれは脅しだったんだ。
 警告してくれたんじゃないかな。
 もともと豚か猿の餌しか作れないくせに、それ以下になりたいかっ
 て……。
ビア 警告ね……。
 じゃあなんだい?
 改心させようとクーデターを演じたと?
 はははは。
 キミらしい受け止め方だ。
ボソ なんかね、いままでそういうことなかったから、よくわから
 ないけど……。
 本当の友達って、こういうかんじなのかなって、一瞬思ったりし
 たんだ。
ビア 心が通ったかい?
 はは、そりゃ幻想であった方が幸いってもんだね。
 奴にかぎっては。
ボソ なんのせいでもない、誰のせいでもない。
 ボクはボクのせいでいまこうしている。
 パンも作らずに。

    ボソマート、パン生地を作業台に
    置き、叩きはじめる。

ビア 省みることも案ずることもない。
 いまキミには風が吹いている。
 それに乗ればいいだけさ。
 じゃあ。
ボソ ビアキス。
 冷蔵庫からバターを出してきてくれないかな。
ビア バターだって?
 いまはそれより……。
ボソ 彼は撃たないよ。
 そしてパンを作りに戻ってくる。
 まるで何事もなかったような顔で。
ビア ははは。
 じゃあ賭けてみるかい?
ボソ え。
ビア おっと、サブリーダー相手に賭けるなんてな……。
ボソ いいよ、賭けよう。
 彼はきっと……。
 いや、間違いなく……。
ビア ああ、間違いないはずだ。
 キミとは正反対の意味で。
 はは。

    ビアキス、去る。
    ボソマート、パン生地を高く持ち上げ、
    作業台に強く叩きつける。
    
ボソ いいか、ボソマート。
 五千だぞ。
     
    ボソマート、黙々と生地を叩き続ける。
    溶暗。
    やがて暗転。

        了


 
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