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「真夜中の紅茶」
作 松岡美幸(まつおか・みゆき)
〇 登場人物
ノゾミ 女の子。片足が不自由。
男
母 ノゾミの母
兄 ノゾミの兄。医者。
第1幕
ノゾミが一人で茶会の準備をしている。紅茶は三人分。
ノゾミは満足な足をもっている。
ノゾミ ええっと、これはここね。ああ、そう。これもあったわ。今日はそうね。クッキーにしましょうか。ああ、でも、ロールケーキもあったんだわ。ダージリンにはどっちが合うかしら。アールグレイなら、迷うことなくクッキーなんだけど。
男、登場。雨に降り込められた様子。
男 ああ、もう。なんだっていきなりこんな雨になるんだ。傘は持ってないし。コートがびしょぬれだよ。もう。
男、家に気づいて。
男 あれ? こんなところに家なんてあったっけ? まあ、いいや。
扉をノックする。
ノゾミ はい。どなた?
男 あの、すいません。雨に降り込められまして。少し雨宿りをさせてもらえませんか?
ノゾミ まあ、それは大変でしたでしょう。(扉を開ける)どうぞ。
男 ああ、ありがとうございます。
男、部屋に入る。
男 いやあ、困りましたよ。天気予報では晴れるって言ってたのに。でも、助かりました。まさかこんな郊外に家があるなんて。(テーブルの上の紅茶を見て)おや? 紅茶ですか。
ノゾミ ええ。家では、決まって家族で夜にお茶会をするんですよ。
男 へえ。それでしたら、なんか、すいません。
ノゾミ え?
男 いや、だって、家族水入らずでお茶会ってときに、いきなり来ちゃって。
ノゾミ まあ。別にいいんですよ。あなたも一緒に参加なさるといいわ。
男 それは、ありがたい。雨で体が冷えてしまって。
ノゾミ、紅茶を淹れてノゾミに差し出す。
ノゾミ どうぞ。
男 ありがとうございます。(飲む)ああ、あったまる。
ノゾミ ロールケーキもあるのよ。
男 あ、すいません。ありがとうございます。
ノゾミ、紅茶を飲む。
男 あの、よかったんですかね? 先に飲んじゃって。
ノゾミ え? なぜ?
男 いや、ご家族がそろってないのに。
ノゾミ いいのよ。
間。
ノゾミ ねえ、先生。
男 え? 先生?
ノゾミ あ、失礼。やだ。私、誰と勘違いしてるのかしら。
男 呼び間違いですか。よくありますよ。ほら、学校で生徒が、先生って呼ぼうとして、間違ってお母さんって呼んじゃうっていう。
ノゾミ 私、小学生じゃなくてよ。
男 あ、これは失礼。で、何ですか?
ノゾミ (気を取り直して)あの、海だとか山だとかって行ったことあります?
男 海とか山? 何でいきなり?
ノゾミ (黙っている)
男、仕方なく答える。
男 ありますよ。今度、友達と川でバーベキューする約束してるんですよ。
ノゾミ じゃあ、思い切り走ったことってあります?
男 思い切り走る? 全力疾走ってことかな。ありますよ。そりゃあもうゼイゼイ言うほど走ったことありますよ。
ノゾミ 走るって、どんな感じなんです?
男 どんな感じ? そうだなあ。疲れますね。うん。ひどいときには、次の日に筋肉痛になったりします。
ノゾミ そうじゃなくて、走ってるときのこと。
男 走ってるとき?
ノゾミ そう。走ってるとき。人から聞いたことがあるの。誰からだったか忘れたけど。走ってるときは、とても気持ちがいいんだって。汗ばんだ肌に、向かい風が心地よく触れる。体のなかは暑くても、そとは冷たくて涼しい。全身で風を受けるうちに、なんだか自分が空に飛び立てそうにも思えてくる。私、そんなの、感じてみたい。経験してみたい。そう思うの。・・・でもね、なぜかしら。私、走れないの。体はどこも怪我なんてしてないの。なのになぜか走れない。
男 雨が、降ってるからじゃないですか。晴れた日に外に出れば、走れますよ。
ノゾミ (沈黙)
男 ご家族の方々、遅いですね。紅茶が冷めてしまいますよ。
ノゾミ ・・・皆、来ないわ。
男 え?
ノゾミ 誰も来ないの。この家には、私ひとりしか住んでないの。ここにいるのは、私と先生の二人きり。
男 先生って?
ノゾミ 昔はね、お兄ちゃんとお母さんと一緒だったの。でも、もう誰もいない。
男 ・・・でも、紅茶は三人分あるじゃないですか。
ノゾミ (応えない)
男 変な冗談はよしてくださいよ。もう。
ノゾミ (男の言葉にかまわず)私、走りたいの。でも走れないの。体はどこも怪我なんてしてないのに。ねえ、先生。私はどうして走れないの?
男 何を言ってるんですか。いい加減にしてください。
ノゾミ 食事はちゃんと食べてるわ。外にでたことなら何度もある。でも、走れなかった。ねえ、どうして? どうして私は走れないの?
体はどこも怪我なんてしてないのに。私は走ってみたい。全身で風を受けてみたいの。なのに、どうして私は走れないの?
第2幕
ノゾミと母が二人で茶会の準備をしている。。温和な雰囲気。
ノゾミは片足を引きずっている。
母 ノゾミ、それはここよ。
ノゾミ え? ああそうね。ごめんなさい。
母 今日はアールグレイよ。
ノゾミ まあ、すてき。
母 ああ、ノゾミ。これはそっちじゃなくて?
ノゾミ え? いいえ、お母さん。違うわ。それはそこよ。
母 え? そうかしら。だってこれは、
ノゾミ もう。違うわ。だってこれがここにあるんだから、それはそこよ。
母 ああ、そうね。そうだったわ。
ノゾミ ねえ、お母さん。お菓子はどうする?
母 そうね。今日はアールグレイだから、クッキーがいいわね。
ノゾミ クッキーね。分かったわ。
兄、登場。扉をノックする。
母 はい。どなた?
兄 僕だよ。母さん。
ノゾミ その声はお兄ちゃん!
母 まあ。
兄、中へ入ってくる。
兄 やあ。久しぶり。
ノゾミ お兄ちゃん!
母 まあまあ。今日はどうしたの。普段は病院が忙しいって、なかなか帰ってこないのに。
兄 (冗談ぽく)何か用がなけりゃ帰ってきちゃいけないの?
母 (笑って)そういうわけじゃないわよ。
兄 研究が一息ついたから、家に帰ってきたんだよ。ノゾミが元気そうで安心した。
母 ええ。
ノゾミ 今ね、丁度紅茶を淹れていたところなの。お兄ちゃんも飲むでしょう?
兄 ああ、貰おうかな。
母 ノゾミ、カップをもう一つ持ってきてちょうだい。
ノゾミ ええ、お母さん。
ノゾミ、慣れた様子で片足を引きずりながら去る。
母 何週間ぶりかしらね。たまには帰ってくればいいのに。
兄 どうしても手が離せなくてね。
母 いくらなんでももう少し家に顔を出すようにしなさいよ。ノゾミにとって、お前はたった一人のお兄ちゃんなんだから。
兄 ああ。ノゾミだって俺にとってたった一人の妹だよ。
兄、真剣な表情になる。
兄 母さん。電話でノゾミから聞いたけど、ノゾミに余計なことを言ったんだってね。
母 余計なこと? 何のこと?
兄 ノゾミは走れないんだ。生まれつき走ることができない身体なんだよ。なのに、ノゾミに、それを受け入れろなんて言ったんだってね。
母 それのどこが余計なことなの。
兄 余計なことだよ。ノゾミだって走ってみたいんだ。なのにそういう希望を全て諦めろって言うのか。
母 諦めるんじゃないわ。自分の運命を受け入れるのよ。
兄 それは偽善だよ。ノゾミは、今は走ることができないけど、まだ一生走れないと決まったわけじゃない。ようやくめどがたったんだ。研究がようやく完成するんだよ。これで、ノゾミは満足な足を手に入れられる。
母 その台詞、何回聞くと思ってるの。毎日毎日研究ばっかりして、ろくに家にも帰ってこないで。
兄 今度は、本当なんだ。大分時間がかかったけど、ギリギリで間に合った。
母 間に合った?
兄 ああ。手術を受けるのは、大人になってからじゃあ遅いんだ。身体の成長が完了する前に手術しないとだめなんだよ。
母 ・・・・手術って、どんなものなの?
兄 移植手術だよ。
母 移植手術って、つまり誰か別な人の足をあの子に移植するってことでしょ。そんなことに協力してくれる人がいるの?
兄 それもやっと見つかったんだよ。
ノゾミ、同様にカップを持って戻ってくる。
ノゾミ おまたせ、お兄ちゃん。今日はアールグレイよ。
母と兄、言い合いをやめて沈黙する。
ノゾミ どうしたの、お兄ちゃん。アールグレイ、嫌だった?
兄 そんなことないよ。
母 さあ、いただきましょうか。
三人、紅茶を飲む。
母 そうだ、ノゾミ。あなたもうすぐ誕生日ね。
ノゾミ ええ。
兄 そうか。いくつになるんだっけ?
ノゾミ 十五歳よ。
母 それでね、ノゾミ。お母さんね、少し早いけどプレゼントを用意したの。
ノゾミ プレゼント? 何?
母 あなたはいつも家のなかにいて、あまり外の世界を知らないでしょう。
兄 母さん、何を言ってるんだ。
母 (兄に)いいのよ。(ノゾミに)それでね、お母さん、ノゾミに色々教えてくれる人に来てもらったのよ。
ノゾミ 色々教えてくれる人?
母 ええ。
男、登場。扉をノックする。
母 あら、噂をすれば影ね。
母、扉を開けて男を中へいれる。
男、状況が把握できず、オロオロしている。
母 ノゾミ、こちらが今日からあなたの家庭教師を務めてくださる先生よ。
ノゾミ 家庭教師?
兄 母さん、何を考えてるんだよ。
母 (兄に構わず)ノゾミ、これからはいろんなことを先生から教えてもらうのよ。
ノゾミ よろしくね、先生。
男 あ、あの、これは一体・・・?
母 ノゾミ、確かにあなたは他の人よりも自由がきかない身体かもしれないわ。だけどね、だからといって落ち込むことはないのよ。自分の運命を受け入れて強く生きるのよ。そうすれば、きっと幸せになれるから。
ノゾミ (応えない)
母 (男に)先生、お聞きの通り、この子は足が不自由です。だから、あまり外にも出られません。走ることができないんです。
でも、悲観してはいけないと思うんです。先生、この子にどうか、外のことを色々教えてやってください。外に出ないから
といって、外のことを何も知らないようでは困りますからね。(ノゾミに)じゃあ、しっかり勉強するのよ。
母、去る。
兄、母の後を追う。
ノゾミと男の二人になる。
ノゾミ 先生、紅茶飲まない? アールグレイがまだ少しあるの。
ノゾミ、紅茶を淹れる。
男 あの、・・・ノゾミ・・・さん、これは一体どういうことですか?
ノゾミ 何が?
男 何がじゃないですよ。ここはどこなんです? どうしていきなりこんなところに来ちゃったんですか?
ノゾミ 何を言ってるの? 意味が分からないわ。
男 意味が分からないのはこっちですよ。僕は、雨に降り込められて、あなたの家に雨宿りをさせてもらっていた。そしたら突然こんなところに来ちゃって。
ノゾミ 先生、落ち着いて。私は先生の言ってることが分からないわ。
男 言ってることが分からないって、そんなはずないでしょう。
ノゾミ 先生と私は、今初めて会ったのよ。それよりも前のことは知らないわ。
男 え? ・・・・そんなばかな。
ノゾミ 先生、夢でも見てたんじゃない?
男 夢?
ノゾミ そう、夢。よくあるじゃない。これから起きることが夢に出てくるって。予知夢っていうのかな。それに私が出てきたんじゃない? それでちょっと混乱してるのよ。
男 そう・・・・なのかな。
ノゾミ きっとそうよ。
男 そう言われると、そんな気がしてくるなあ。そういえば、雨宿りに入った家も、つくりがこことよく似てたなあ。夢、か?
ノゾミ ねえ、先生。私、夢のなかで何か言ってた?
男 え?
ノゾミ 先生が見た夢でよ。私、どんな風だったの?
男 どんなって、そうだな。紅茶を飲んでたよ。
ノゾミ 紅茶を?
男 そう。それで僕に一杯淹れてくれた。
ノゾミ すごい。夢のなかでも、私は先生に紅茶を淹れるのね。他に私、何か言ったりしてた?
男 夢のなかの君は、何だか、僕と会話が成立していないような感じだった。自分の世界に入ってるみたいなね。君は、そう、走りたいって言ってたんだ。
ノゾミの表情が一転して固くなる。
しかし、男はそれに気づかない。
ノゾミ 走りたい?
男 そう。自分はとても走りたいんだってね。君は誰かから聞いたって言ってた。走るってことは、とても気持ちがいいらしいって。
汗ばんだ肌に、向かい風が心地よく触れる。体のなかは暑くても、そとは冷たくて涼しい。全身で風を受けるうちに、なんだか自分が空に飛び立てそうにも思えてくる。そんなのを感じてみたいって言ってた。経験してみたいって。
ノゾミ ・・・そう。
ノゾミ、明るい雰囲気を取り戻して。
ノゾミ ねえ、先生。走るって、本当にそんなにいいものなの?
男 え?
ノゾミ だって、先生の夢のなかの私って、走るって本当にいいって思ってるみたいなんだもの。先生は、走ったことあるでしょ? ねえ、どうだった? 本当にそんなにいいものだった?
男 うーむ。僕は別に何かスポーツをやってたわけでもないから、そんなにはっきりいいとは言えないんだけど。走ると、まず第一に疲れる。しっかりストレッチとかをやらないで走ったりすると、横腹が痛くなる。その痛みってのは、病気になったときみたいな体の内側からの痛みじゃないんだ。なんか、刃物で刺されたみたいな、そうだな、刺すような痛みってやつだよ。翌日は筋肉痛になったりもするし。
ノゾミ 両方とも、私、なったことない。
男 うーむ。苦痛であることには変わりないからね。経験がない方がいいのかもしれない。でも、確かに、走ってるときは気持ちがいいもんだよ。
ノゾミ 走ってるとき?
男 そう。走ってる最中さ。夢の中で君が言ったように、確かに気持ちがいいもんだよ。全身の毛穴が開くっていうのかな。体中が火照って、開放感に満ち溢れるっていうか、・・・うーむ。なんて言えばいいのかな。
ノゾミ 私、そんなの、経験したことない。
男 体を動かせばいいんだよ。走るってことだけじゃなくて、運動した後は皆そうなるし。
ノゾミ 私、あんまり運動とかしない。
男 ・・・うーむ。
ノゾミ 他には? 夢の中の私は、他に何か言ってなかった?
男 他に? そうだな。何か言ってたような気がするなあ。
ノゾミ 気がするって?
男 いや、あんまり覚えてないんだ。忘れちゃってるってことは、やっぱりあれは本当に夢だったのかも。あ、そういえば、君が言ったことじゃないけど、思い出したよ。
ノゾミ 何?
男 あ、いや、その・・・。
男、言い難そうに口ごもる。
ノゾミ 何よ? 私、どんな風だったの?
男 いやね、その、君は、・・・。
男、意を決したように。
男 夢の中の君は、片足を引きずっていなかった。
ノゾミ ・・・・そう。
雨音が広がり始める。
男 あ、雨・・・。
第3幕
兄が電話をしている。かなり焦った様子。
ノゾミがソファで眠っている。
兄 ちょっと待ってくださいよ。この間と言ってることが違うじゃないですか。事情が変わったって、それで済む問題じゃないでしょう。こっちは時間が限られてるんですよ。今のうちに、患者がまだ子供なうちに手術しないといけないんです。患者は、妹は、もうすぐ十五歳になるんですよ。ギリギリなんです。
男、登場。兄に気づく。
兄、男に気づかない。
兄 お願いします。そちらに断られたら、もう提供者がいないんですよ。え? いや、だから、死んだ人間からしか移植はできないんです。・・・うちの娘はモルモットじゃないって、それは分かってます。ええ、ですから、私が言いたいのは、・・・もしもし? もしもし? もしもーし!
ちっ。切られた。ああ、もう。どうしろって言うんだ。
兄、男に気がつく。
兄 ああ、いたんですか。
男 どうも。
兄 ・・・・聞いてました? 今の。
男 あ、いえ。聞いてはなかったんですが、耳に入ってました。
兄 聞いてたんじゃないですか。
(眠っているノゾミを見て)先生、ノゾミはね、走れるんですよ。一生このままなんかじゃないんです。手術さえすれば、手術さえうまくいけば、ノゾミは満足な身体を手に入れられる。走れるんですよ、思いっきり。ノゾミは生まれつきこうでしたから、いつも家のなかで大人しくしていました。何かする度に自分の思い通りにならない片足を引きずって。何度可哀相に思ったことか。同い年の子供たちは、元気に外で走り回ってるんですよ。ノゾミも、あんなふうに走らせてあげたい。かごの中の鳥みたいな一生にはさせません。のびのびと元気よく生きてほしい。だから私は医者になった。ノゾミに走るってことを経験させてあげたい一心で医者になったんです。
研究に研究を重ねた結果、ようやく技術は完成された。なのに、今になって提供者に断られるなんて。
男 死んだ人間からしか移植できないって、言ってましたね。電話で。
兄 ええ。しかも同じ女性からの提供じゃないと、移植はできない。
男 今の電話の相手は?
兄 娘さんが、先日亡くなって。提供してくれるって約束してくれたんですけど、今になって断られました。
男 どうして?
兄 既に死んでるとはいえ、娘の体ですからね。足一本でも他人にやるのが惜しくなったんでしょう。ふざけてる。ノゾミはそれで走れるようになるはずだったのに。死んだ人間は、せめて生きてる人間の役に立てばいい。あとは土に返るだけなんだから。
母、登場。
母 たとえ提供者とやらが見つかっても、ノゾミに移植するなんて、許しませんよ。
兄 母さん。
母 死んだ人間の一部を切り取ってノゾミの身体にくっつけるなんて、冗談じゃないわ。この子は、走れないなら走れないでいいの。そんな馬鹿みたいな夢にいつまでも執着して。そんなことをしている暇があるなら、自分の運命を受け入れる努力をするべきよ。
兄 夢じゃないんだよ、母さん。実現するんだ。提供者さえいれば。
母 どうしてそんな方向に努力するの。いい? 何もかもが自分の思い通りになるなんて、そんなのは人生なんかじゃない。会いたい人に会って、会いたくない人には会わないで。食べたいものだけ食べて、食べたくないものは食べないで。そんなの死んでるのと変わらないじゃない。ノゾミには、自分の運命を受け入れる強さを身に着けてほしい。無いものを欲しがるよりも、今あるものに感謝してほしいの。
兄 そんなの、偽善だ。こうなったらいいな、ああしたいなって思って、努力し続ければ、必ず実現する。不可能なことなんて何もないんだ。母さんが言ってるのは、努力しない人間の言い逃れだよ。
母 何とでも言いなさい。とにかくノゾミに移植手術をすることは、絶対に許しませんからね。
兄 それは母さんの意思だろう。ノゾミは、移植手術を受けるべきなんだよ。
男 あのう、ノゾミちゃんの気持ちを聞いてみたらどうでしょう。
兄 え?
男 いや、お二人とも、おっしゃってることは筋が通ってるんですよね。でも、肝心のノゾミちゃんの気持ちはどうなのかなって。
母 ノゾミの気持ちなんて関係ありません。この子は私の娘よ。私が育てるの。
兄 母さんは、ノゾミのことなんて本気になって考えてないじゃないか。自分と同じ考えをする人間が欲しいだけだろ。
母 いいかげんにしなさい! あなた、母親に向かってなんて口をきくの。ノゾミよりも少し早く生まれたあなただって私の子供なの。子供は子供らしく、親の言うことに素直に従いなさい!
兄、母を睨む。
母 なんです、その目は。
兄 母さんは、ノゾミを可哀相だと思わないのか。
母 可哀相とか、そういう問題じゃないでしょ。何回言ったら分かるの、この子は。
兄 母さんの言ってることは、努力を嫌う人間が自分を正当化するために言ってることと変わらないよ!
母 なんてことを言うの! 出て行きなさい。さあ、もう出て行きなさい!
兄、出て行く。
母 (ノゾミを見て)可哀相だと思わないかですって? 思ってるわよ。この上なくね。でも、思って何になるの。私は、この子が元気よく生きてくれるなら、何だってするわ。何だって。
母、男がいたことを思い出して。
母 ああ、先生。見苦しいところを見せましたわね。すいません。
男 あ、いえ。
母 じゃあ、私は奥におりますから。
男 はい。
母、行こうとして少し目まいでふらついた様子。しかし、背後になっているため、男はそれに気がつかない。
母、去る。
それと同時に、眠っていたノゾミが起き上がる。暗い表情。
男 あ、ノゾミちゃん。起きた? おはよう。
ノゾミ 途中から起きてたわ。
男 え、じゃあ、もしかして、今の聞いてた?
ノゾミ ええ。
男、ノゾミの表情が暗いのに気づく。
男 ・・・・・ノゾミちゃんは、どうしたいの?
ノゾミ (答えない)
男 お母さんもお兄さんも、二人ともノゾミちゃんのことを想って言ってたんだ。ノゾミちゃん自身は、どうしたいの?
間。
ノゾミ 先生、私ね、お兄ちゃんもお母さんも大好きなの。二人も私のこと、大好きなんだって、愛してくれてるんだって、私、知ってるわ。だって、二人とも、私のことでケンカしてるんだもの。愛されてる証拠よ。
男 それは、そうかもしれないけど・・・。
ノゾミ ・・・自分の気持ちに、従うしかないのかしら。
男 え?
雨音が響く。
ノゾミ ねえ、先生。二つのものがあって、どうしても一つに選べないときって、どうしたらいいの? だって、正しいと思って選んだ方でも、後で後悔することだってあるでしょう? そもそも正しいって決める自分が間違ってたらどうするの? 後で絶対に後悔しない選択なんて、あるの?
男 ・・・・・。
ノゾミ 本当に正しいって決められる人間なんて、本当はいないんじゃない? 夢と現実が、どちらか区別がつかないように。
男、はっとする。
ノゾミ 紅茶はいつでも三人分用意するわ。私の前には、いつも後悔があるの。たとえどちらを選んでも。
男 ・・・あれは、夢じゃないのか?
ノゾミ (答えない)
男 あれは現実で、こっちが夢? ああ、分からない。
ノゾミ 夢と現実は、いつも区別がつかないの。
お兄ちゃんもお母さんも、二人とも私を愛してくれてる。愛してる人の為なら、人は何でもするわ。
男 何でも・・・?
ノゾミ ええ。
男、何かに気づき、慌てて兄の後を追う。
ノゾミが残される。
雨の音が響く。
ノゾミ 今夜は、嵐ね。
第4幕
母が一人でいる。
母、咳き込む。無理にそれを落ち着かせる。
そこに兄が現れる。いつもと雰囲気が違う。
母 まあ、どうしたの。そんな幽霊みたいに現れて。どうしたの、手術を諦める気になった?
沈黙。
やがて兄が口を開く。
兄 ああ、移植手術は諦めることにしたよ。提供者にだって断られたしね。
母 ええ、それがいいわ。大体ノゾミは、歩けないわけじゃないの。走ることさえできないけど、歩けることは歩けるのよ。
兄 (唐突に)母さん、お茶でも淹れるよ。
兄、紅茶を淹れ始める。紅茶に何かを入れるような仕草。
母 母さんはお前が考えを改めてくれて嬉しいわ。ないものを求めるよりも、今あるものに感謝する。それが重要なのよ。
兄、紅茶を母に差し出す。
母 ああ、ありがとう。(紅茶を受け取る)
お前は、昔からノゾミのことを大事に想ってくれていたものね。お前の言いたいことも分からないではないの。でもね、今あるものへの感謝も必要よ。
兄、自分はカップを持ったままで紅茶を飲まずに、母が紅茶を飲むのをじっと観察している。
兄 分かってるよ、母さん。母さんの言いたいこと、俺もよく分かってるんだ。
母、紅茶を飲もうとする。
そこへ男が現れる。
男 それを飲んじゃだめだ!
男、母のカップを奪う。
兄 何をするんだ!
男と兄、カップの奪い合いで取っ組み合いになる。
カップが落ち、中の紅茶がこぼれてしまう。
兄 お前、何をするんだ!
男 それはこっちの台詞です! あなた、自分が今何をしようとしてたのか、分かってるんですか!
兄 あんたには関係ないだろ!
母 (驚いて)何? 一体どうしたんですか、先生。
男 ノゾミちゃんの移植手術には、死んだ人間の身体が必要。女性の遺体が手に入れば、ノゾミちゃんは手術で満足な身体を手に入れられる。
母、はっとする。
母 そんな。嘘です。そんなことあるはずない。 だって今、手術は諦めるって。
兄 ・・・・諦めるって言ったのは、嘘だよ。俺は、たとえどんな手を使ってでも、ノゾミの足を治すんだ。今までずっと、ノゾミの足を治したい一心で、研究してきた。技術は完成した。あとは足があればいい。移植手術に死んだ人間が必要なら、俺は、人だって殺してやる!
男 冗談じゃない! それでノゾミちゃんが幸せになると思うのか! 自分の母親を殺してまで、走れるようになりたいと思ってるものか!
雨音と同時にノゾミが現れる。
母 ノゾミ・・・・。
男 ノゾミちゃん。
兄、ノゾミの足元にナイフを投げる。
兄 (ノゾミに)やれ、ノゾミ。それで母さんを殺すんだ。
男 何を言うんだ!
男、ノゾミに駆け寄ろうとするが、兄に邪魔されて動けない。
兄 ノゾミ、母さんを殺せば、お前は満足な足を手に入れられる。走れるようになるんだよ。
母 ノゾミ・・・。
男 ノゾミちゃん、相手にしちゃいけない。今、お兄さんが殺せと言ってるのは、君の実のお母さんだよ。
ノゾミ (沈黙)
雨音が響く。
ノゾミ 雨は、・・・嫌いじゃないわ。だって、雨の日は、皆が家のなかにこもって誰も外で遊ばない。私と同じ年の子が外で元気よく遊んでるのを窓から見ることも、外からの楽しそうな笑い声を聞くこともないんだもの。
ノゾミ、ナイフを拾う。しかし、殺意は感じられない。
ノゾミ お兄ちゃんのバカ。どうしてこんなことするの。私の今までの努力が水の泡じゃない。
兄 努力?
ノゾミ そうよ。お兄ちゃん、昔言ったわよね。私が移植手術を受けるためには、死んだ人が要るんだって。しかも女の人じゃないといけないって。私、その為に、毎日毎日、お母さんの紅茶に少しずつ少しずつ毒を入れ続けてきたのよ。お母さんに知られないように、即効性じゃなくて、身体に少しずつ蓄積していくものを選んでね。もう少しで致死量に達するところだった。なのに、なんで今になってこんなことするの。お兄ちゃんのバカ!
一同、沈黙。
雷鳴。
ノゾミ、片足をひきずりながら一歩ずつ母に近づく。その表情は、殺意というよりも悲しみに満ちている。
ノゾミ 人は、言う。強く生きろ。君の運命は不幸かもしれない。でも、その不幸に負けてはだめだ。力強く生きなさい。また別な人は言う。君は、全く歩けないわけじゃない。走ることはできないかもしれないけど、歩けないわけじゃない。世の中には、全く歩けない人だっているんだから。それから、こういうのもあった。君には、手がある。耳も目もある。鼻だってある。その事実に目を向けるべきだ。
雷鳴。
ノゾミ 私、走りたいのよ! あなたに、あなたたちに、歩くことができても走ることができない私の気持ちが分かるっていうの? 私は、走りたいのよ! 私が欲しいのは、満足な足よ! 手や耳や目や鼻があるっていうのだけで満足なら、あなたの足をちょうだいよ。今あるものに感謝するなら、あなたから足が一本なくなったって、あなたは別に不幸になったりしないでしょ。その足をちょうだいよ。私は、満足な足がほしいのよ!
母、いきなり紅茶の方に走り、兄が飲まなかった紅茶を飲む。
一同、驚く。
母、苦しみだす。
男 どうして・・・?
母 (苦しみながらノゾミに)お母さんね、ノゾミが生まれたときに決めたのよ。あなたが幸せになってくれるなら、何だってするって。ノゾミ・・・。私の大切な娘。
ノゾミ、驚きで動けない。
兄 やれ、ノゾミ! ためらうことなんてない。母さんを殺して、お前は満足な足を手に入れるんだ。そのために、毎日毎日努力してきたんだろう!
再び雷鳴。
ノゾミ あああああああ!
ノゾミ、叫びながら母親を刺す。
母、愛情のこもった目でノゾミを見つめ、事切れる。
沈黙。
雨音が響く。
ノゾミ ・・・神様が、私にくれなかったものを、私がどうしても欲しかったら、私、他にどうやって手に入れればいいの?
男、何も言えずに立ちすくむ。
兄、母に近寄り、脈がないことを確認する。
兄 ノゾミ、手術だ。走れるようになるぞ。俺が約束する。夢じゃないんだ。本当に走れるんだよ。おいで。
兄、ノゾミに手を差し出す。
ノゾミ、恐る恐る兄の手を取る。
男 ノゾミちゃん!
男、行ってしまおうとするノゾミを呼び止める。
ノゾミ (男に)先生、私、走れるようになるんだって。夢じゃないんだって。私も、満足な身体を手に入れられるんだって。
男 ・・・・・。
ノゾミ、兄に連れられて出て行く。
雨音が響く。
ノゾミと男、第1幕の雰囲気に戻って。
しかし、男の表情は暗い。
ノゾミ 雨、止まないわね。
男 ・・・・雨が止んだら、外に出て、思いっきり走るんですか?
沈黙。
ゆっくりとノゾミが口を開く。
ノゾミ ・・・食事はちゃんと食べてるわ。外にでたことなら何度もあるわ。でも、走れなかった。走る気にはなれなかったの。ねえ、どうして? どうして私は走れないの?
身体はどこも怪我なんてしてないのに。私は走ってみたい。全身で風を受けてみたいの。ただ、それだけなのに。
雨は、一向に止みそうにない。
<閉幕>
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