シアターリーグ > シナリオ > camellia >
 
「camellia」
作 松岡美幸(まつおか・みゆき)
 



○ 登場人物
柏崎椿(かしわざき・つばき) 伯爵柏崎家の長女。恋多き女として有名。
西條卓(さいじょう・すぐる) 子爵。ここ数年で貿易業に成功して財を築いた西條家の若き当主。独身。椿の許婚となる。
東司郎(あずま・しろう) 一般人。椿の恋人の一人。
柏崎拡(かしわざき・ひろむ) 伯爵柏崎家の当主。椿の兄。身体が不自由で杖をついている。
洋子(ようこ) 伯爵柏崎家の家政婦。

○ 舞台
明治中期。伯爵柏崎家の客間。


第1幕
第1場 

  柏崎家の客間。誰もいないところに卓が洋子に案内されてやってくる。

洋子  どうぞ。こちらでお待ちください。今お呼びします。
卓   ああ、どうも。あの、(奥へ行こうとする洋子を呼び止める)
洋子  はい?
卓   ああ、あの。
洋子  何か?
卓   あの、・・・・椿さんはご在宅で?
洋子  ええ、ご自分のお部屋にいらっしゃるかと。
卓   ああ、そうですか。
洋子  気になりますか?
卓   え?
洋子  そりゃそうですよねえ。これから結婚しようって間柄ですもんねえ。
卓   ・・・・。
洋子  しかしまあ、よくうちの椿様と結婚なんていう気になりましたねえ。椿様の交友関係のことをご存知なんでしょう? 知らないはずがないですよねえ。社交界仲間の間じゃ結構な噂だそうですし。本当に椿様のことでは拡様も頭をかかえてらっしゃいますよ。結婚前の娘が、男を部屋に連れ込んだかと思えば、翌日には何食わぬ顔で別の男と談笑してらっしゃる。特定の殿方とそういう関係になって、将来を誓い合うというなら、この時代遅れの婆も納得いたしますよ。それが、毎回毎回違う男ですよ? まったく。最近はそれが当たり前なんですかねえ。
卓   恋多きことはよきことかと。
洋子  恋多きことですって? まあ、ものはいいようですね。この婆は悲しくて仕様がないですよ。この柏崎の家の令嬢である椿様がこんなふうになってしまっただなんて。
卓   ・・・・・。
洋子  本当にもう私は悲しくて悲しくてねえ。恋多き女だなんて、なんて都合のいい呼び方でしょう。
卓   あの、
洋子  はいはい。それじゃあ、拡様をお呼びしますよ。

  洋子、奥へと姿を消す。卓、一人になる。
  司郎、椿の部屋から駆けてくる。そこにいた卓と目が合う。
  司郎、卓に一礼して出て行く。卓、成す術もなく司郎を見送る。
  拡、杖をつきながら現れる。洋子、拡の後ろについてやってくる。

拡   いやあ、西條くん。待っていたよ。
卓   これは柏崎様。
拡   わざわざ来てもらってすまないね。用があるならこちらから出向くのが礼儀であるはずなのに。
卓   あ、いえ。
拡   まあ、座りたまえ。

  二人、座る。

拡   今回のことは本当になんと言っていいのか。
卓   私も、なんと言っていいのか分かりません。まさか柏崎様のご令嬢とこのような縁談がもちあがるとは。身に余る光栄です。
拡   そんなに謙遜することもないだろう。西條家といえば、近年目に見えて発展してきている家柄だ。貿易業界ではその名を知らない者はないと聞く。私の家とそのような西條家との間にこのような話がもちあがるのは、こちらとしても「身に余る光栄」というやつだよ。
卓   そんな、滅相もない。
拡   (洋子に)洋子、客人にお茶を。
洋子  はい、拡様。(奥へ消える)
卓   あの、椿さんは?
拡   ああ、自分の部屋にいるだろう。
卓   そうですか。

  拡、ふと口を開く。

拡   で、西條くん。
卓   卓で構いません。これからは拡様は私のお兄様になるのですから。
拡   ああ、それでは卓くん。
卓   はい。
拡   本当に椿との結婚、了承してくれるんだね?
卓   はい。勿論です。
拡   後になってからやっぱり嫌だとかは言わないね?
卓   はい。
拡   そうか。
卓   どうしてそんなことを聞かれるんですか? 
拡   いや。
卓   私には柏崎様の家に入ることは不可能だとお感じになりましたか? 椿様の夫の器ではないと?
拡   いや、そうじゃない。
卓   では、・・・何故?
拡   いや、そうじゃない。そうじゃないんだよ。ただね、ほら、椿は、その、あまりいい噂を聞かないからね。
卓   噂?
拡   ああ。
卓   ・・・恋多き女でいらっしゃるという?
拡   恋多き女か。そうだな。それが一番綺麗な言い方かもしれない。そう、椿は恋多き女だ。それでも君は?
卓   噂はとかく何の根拠もないことを無責任に広めるものです。それに、私は恋多きことはよきことと存じております。実際、椿さんはとても聡明な女性でいらっしゃいますし。魅力的な方です。とても。
拡   はて? 君は椿と面識があったかな?
卓   いえ、面識というほどのものでは。ただ、社交界の場でお姿を拝見したことは何度かあります。とても、美しかった。
拡   ・・・では、君は椿との結婚を承諾してくれるということだね。
卓   私などが、柏崎様のご令嬢との結婚に承諾するもしないも恐れ多くてとても。ただ、今回のこの縁談は私にとっては願ってもない幸せです。それは確かです。
拡   そうか。それを聞いて安心したよ。いやね、君が伯爵家である柏崎の申し出を断ることができずにいるのかもしれないと心配になってね。
卓   そんな。とんでもない。
拡   そうかと言って、私はこんな身体だろう? とてもこの家を継ぐことはできない。柏崎の家はもう妹椿の結婚相手に頼るしかないんだ。こんなことを言うだなんて、己の恥を暴露しているようなものだな。
卓   お役に立てるように努めます。精一杯。
拡   本当に君のような好青年が見つかってよかった。これで柏崎の家は安泰だ。
卓   私も、椿さんを幸せにします。
拡   そうか。
卓   はい。結婚後はどんなに財を用いてでも、メイドを多く雇って椿さんには家の仕事なんてひとつもさせません。外出の際は必ず馬車を呼んで、とにかくこの世の苦労だなんてものは何一つ感じさせません。
拡   あまり妻を大事にし過ぎてもいけない。伯爵家は子爵の感覚でいてもらっては困ることもある。妻には節度を守らせ、夫の三歩後を歩かせなさい。常に気高く気品を持って、しかし夫の言うことには従順にさせるんだ。いいかい、西條くん。
卓   卓で結構です。
拡   ああ、そうだったな。卓くん。夫として威厳を持てなければ、伯爵家柏崎は名乗れない。君には柏崎の家に養子として入ってもらわなければならない。分かるね?
卓   はい。西條の家は子爵という位はもはや名前だけです。私は、西條の名前で行ってきた貿易業の財を持参金に、柏崎の家に入るつもりです。
拡   ああ、それがいい。こちらとしてもそれを聞いて安心したよ。それでだ、
卓   あの、
拡   何だね?
卓   あの、・・・椿さんは?
拡   ああ、部屋にいると思うよ。
卓   はい、それは先ほどもうかがいました。家政婦の方からも。
拡   うん?
卓   あの・・・、結婚前にこんなことを言うのは本当に礼儀がなっていないと思うのですが、・・・その。
拡   どうした?
卓   椿さんにお会いするというわけには?
拡   ・・・・。
卓   あの、本当に礼儀がなっていないというのは分かるんですが・・・、その・・・。

  洋子、茶を持って戻ってくる。

拡   西條くん。君はこれから柏崎の人間になるのだよ? ましてや君は今日初めて家に来たばかりじゃないか。それなのに、伯爵家の人間になろうというのに、結婚前に相手に会いたいと? まだ結納も済ませていないのに。
卓   申し訳ありません。

  椿、現れる。
  洋子、椿に気づいて。

洋子  お嬢様。

  拡と卓、椿のほうを見る。
  椿、うっすらと微笑をたたえている。

拡   椿。
卓   ・・・椿さん・・・。
椿   皆さん、ごきげんよう。
卓   ・・・・・。
椿   お兄様、お客様がおいでになるのならそうおっしゃってくださればよかったのに。(卓を見て)初めてお見受けするお顔かと存じますわ。お兄様、こちらは?
拡   ・・・西條卓くんだ。
椿   西條? 西條様って、あの貿易業で巨万の富を築いたという?
卓   西條卓です。
拡   椿。お前の結婚相手だ。

  椿、少し驚いたような顔で卓を見る。

椿   結婚相手?
拡   そうだ。

  椿、少し思案をめぐらせて。

椿   ・・・そう。
拡   どうした? 何か不都合なことでも?
椿   いいえ。何故?
拡   いや。
椿   (卓に微笑みかけて)よろしくお願いいたします。西條様。
卓   こちらこそ、不束者ですがよろしくお願いいたします。
椿   まあ、まるで女のようなことをおっしゃいますのね。
卓   あ、はあ。すいません。
拡   椿。もういい。部屋に戻りなさい。
椿   まあ、お兄様。もう? 私はもう少しこの西條様とお話したくてよ。とても面白そうな方じゃない。
拡   結婚前の娘が何を言うんだ。大人しく部屋に戻りなさい。
椿   仕方ないですわ。お兄様が探し当てたのだから、さぞ立派な殿方なのだろうと思うと、何だか名残惜しくもありますけれど。妹めは大人しくお兄様の言うことに従います。ああ、それから洋子。さっきここを誰か通らなかった?
洋子  いいえ。私は何も存じ上げませんが。
椿   そう。
洋子  はい。
卓   あの。
椿   はい?
卓   先ほど、男性とお会いしました。
椿   そう。
拡   (はっとして)椿、お前・・・!
椿   (卓に)西條様に何か申しておりまして?
卓   いえ。何だか急いでらっしゃったようで。私に一礼だけしてすぐに出て行かれました。
椿   そう。
卓   あの、椿さんのご友人か何かで?
椿   さあ。
卓   え?
拡   椿。誰だ? 今度は一体どこの誰だ?
椿   あら、お兄様。何のことをおっしゃってるのかしら? 私と西條様が言っているのは猫のことですわ。私になついている野良猫のことです。私はどうやら野良猫によくなつかれるようで。
拡   野良猫だと?
椿   ええ。ですよね、西條様。
卓   ・・・・・。
椿   それでは、私はそろそろ部屋に戻りますわ。今日は何だか朝から熱っぽくって。では、皆さん。ごきげんよう。

  椿、行ってしまう。

拡   西條くん、すまない。少し失礼するよ。

  拡、椿の後を追う。
  卓と洋子の二人になる。
  呆然とする卓。

洋子  恋多き女と結婚するっていうのは、こういうことですよ。先代様がご存命の頃は、柏崎家といえば相当なお家でしたよ。そこに仕える私も鼻が高かったものです。それが、今ではどうです。新しく当主になられた拡様は、半年前の馬車の横転事故であのようなお体になってしまって。結婚も決まっていたのですよ? 結納まであと数日というころになって、まさか事故に遭うなんてね。それに、椿様。拡様が自分の結婚が破談になった以上、柏崎の家は椿お嬢様の結婚に頼るしかないと頑張っていらっしゃるのを知ってか知らずかあの様子ですよ。
卓   ・・・・。
洋子  日を改めていらした方がよろしいんじゃないですか? できるならば考えも改めて。
卓   ・・・本日はこれで失礼します。また、明日にでも参上しますと拡様にお伝えください。

  卓、帰っていく。
  洋子、一人で黙って卓を見送る。
  拡、戻ってくる。

拡   まったく、椿め! 何なんだ、あの態度は! 柏崎の家のために私がどれ程の時間と労力を割いているか分からないのか。
(洋子に気づいて)おや? 西條はどうした?
洋子  先ほどお帰りに。
拡   帰った?
洋子  はい。
拡   何故?
洋子  急用を思い出したとか。また明日、改めて参上なさると。
拡   なんということだ。これで西條との縁談がなくなりでもしたらどうするんだ。そもそも柏崎の人間にもかかわらず恋多き女だなんて噂が立つとは、言語道断。私がこんな身体でなければ椿はこの家から勘当されていた。
洋子  ・・・・。
拡   まったく。どいつもこいつも、どうしてこうなんだ。西條だってそうだ。確かに椿の態度はよくなかった。だが、こんなにそそくさと帰るか? 当主たる私に挨拶もなしに。たかが子爵。なるほど礼儀のなっていないことだ。
洋子  (黙っている)
拡   柏崎の人間は、本来は誇り高くなければならない。なのに現実は、あんな成金の西條などと血を交えなければ柏崎は存続できない。商売なんぞに手を出しおって、己の血を卑しめているのに気づかないのか。
洋子  貿易業で巨万の富を築いたお方でしょう。きっと椿お嬢様を幸せにしてくださるかと。
拡   馬鹿馬鹿しい。椿を幸せに? 恋多き女をか?
大体洋子。お前も何だ。私が言わなければ客人に茶も出さない。何故、当主たる私が客人の茶の心配などせねばならんのだ。
洋子  申し訳ございません。
拡   伯爵柏崎家の当主が、あんな成金の茶の心配だと? 堕ちたものだ。貴様らがもっと己に誇りを持っていれば、私がこれほどまで苦労する必要もなかったろうに。まったく、どいつもこいつも気に入らない奴ばかりだ。



第2場

  同日夜。誰もいない居間に宵闇にまぎれてこっそり椿が現れる。
  玄関の扉の向こうに司郎がいることに気づいて駆け寄って、扉を開ける。
  二人はお互いの顔を見るや否や抱擁と接吻を交わす。

司郎  昼間、ここで私の知らない男を見ました。あれは当主の拡様ではないようでしたけれど。
椿   ああ、西條様にお会いしたんですってね。
司郎  西條?
椿   ええ。子爵西條卓。
司郎  ?
椿   西條家というのは、子爵の家柄です。子爵とは伯爵から見ればずっと下のほうの位ですわ。西條卓は、子爵ゆえの人脈を利用して商売に手を出した若き実業家です。
司郎  商売?
椿   貿易業です。海外と商売のやりとりをすることで彼は巨万の富を得たのです。しかし、同時にそれは成金に等しい行為。社交界では彼の財力の恩恵に与ろうとする連中でいっぱいですわ。
そんな男のために、私は気分の優れない体を押してでも挨拶に参上しましたのよ。
司郎  気分が優れない? 昼間私が帰るときもそうおっしゃっていましたね。風邪か何かですか?
椿   さあ。明日にでも医師を呼んで診察させますわ。なぜかしらね、最近熱っぽくて。それでも客人とあらば、伯爵家柏崎の人間として挨拶に参上しなければならないのですよ。たとえそれがあの西條だとしても。
司郎  その西條とやらが、何故ここに?
椿   お兄様ですわ。お兄様が連れてきたのです。
司郎  拡様が? 何故?
椿   ・・・私はどうやら子爵西條卓と結婚するようです。
司郎  結婚!
椿   ええ。
司郎  ・・・じゃあ、私たちの関係もこれで?
椿   何をおっしゃるの。大丈夫。私が結婚しても、今まで通りに。
司郎  ・・・・・。
椿   心配なさらないで。私があなたを見捨てるとでも?
司郎 でも、子爵様の奥方が他の男と会うようなこと?
椿   それは、あなただって変わらないじゃないですか。それに、私は西條の家に入るのではありませんわ。西條が柏崎の家に入って、彼が伯爵の位を継ぐのです。
司郎  婿養子、ですか。
椿   ええ。お兄様の頭の中は、柏崎の家のことしかありませんもの。私と西條を結婚させ、西條には柏崎を名乗らせる。西條の家は事実上断絶。一方、柏崎の家は西條が貿易業で築いた巨万の富を手に入れて、無事に存続。なるほど、お兄様の考えそうなことですわ。半年前の馬車の事故で身体を痛めてから、あの方は精神も一緒に痛めてしまったのよ。そりゃあ、殿方が婚約を破棄されるだなんて耐えられないようなことでしょうけど。
司郎  ・・・精神は、そう簡単に治りませんよ。
椿   ああ、ごめんなさい。私ったら、なんて失言を。
司郎  いえ、いいんですよ。

  沈黙。

椿   近頃、どうです?
司郎  相変わらずです。気の病というやつは、いくら金をかけても一向によくならないんですね。
椿   心中、お察しいたします。
司郎  すいません、あなたにあれの心配をさせるなど。
椿   いいえ、構いません。それよりも、治療費は?
司郎  それが・・・。仕事を探すのですが、その・・・。
椿   いい仕事が見つからないのね。
司郎  いっそのこと力仕事でもと、
椿   それだけはおやめになって。絶対に。怪我でもしたらどうなさるの。
司郎  しかし、他に方法が。

  椿、少し考えて懐から封筒を出す。

椿   ではこれをお持ちになって。
司郎  いえ、いけません。これで何度目ですか。
椿   構いませんわ。沈んだ顔をしているあなたを見たくないんです。それに力仕事だなんて始めたら、私は毎日毎日いてもたってもいられませんわ。
司郎  しかし、椿様はこれから人の奥方に・・・。
椿   ですから、それとこれとは関係ないんです。私が結婚しても、今までどおりでと申し上げたばかりではないですか。
司郎  ええ・・・・。
椿   それに、こうは考えられませんか? 私は西條と結婚する。西條はその財力の全てを持参金に、この家に入るのよ。そうなれば、今まで以上にあなたを助けることができる。
司郎  ・・・・。
椿   だから、力仕事だなんておやめください。あなたのことは全て私が何とかします。
司郎  椿様・・・。

  沈黙。

椿   今夜も泊まって行けるのでしょう?
司郎  はい。
椿   では、お兄様に見つからないうちに私の部屋に。

  二人、椿の部屋へ行ってしまう。
  洋子、無言で現れ、二人が行ったほうをしばらく見つめている。



第3場

  翌日の昼。
  拡に茶を出す洋子。
  拡、窓際に立ち、窓の桟を見ている。

拡   洋子。
洋子  はい。
拡   来なさい。
洋子  ?

  洋子、拡の方へ行く。

拡   なんだ、これは? 窓の桟に埃がたまっているじゃないか。ちゃんと掃除はしているのか。
洋子  申し訳ございません。
拡   私は、ちゃんと掃除はしているのかと聞いている。質問に答えなさい。
洋子  ・・・以後、気をつけます。

  玄関のベルが鳴る。

洋子  きっと西條様でしょう。

  洋子、玄関に行く。
  洋子、卓を連れて戻ってくる。

卓   おはようございます。
拡   ああ、西條君。おはよう。洋子、客人に茶を。

  洋子、台所へ消える。

卓   昨日は挨拶もせずに帰ってしまって、失礼いたしました。
拡   いやいや。私も客人を放っておいて椿のほうへ行ってしまった。私のほうこそ無礼を詫びるよ。
卓   そんな。
拡   ところで西條君。昨日の話の続きだが、
卓   どうかお兄様。卓で結構です。卓とお呼びください。
拡   ああ、そうだったな。卓くん。
卓   あの、お兄様。今日は、椿さんは?
拡   椿?
卓   はい。

  洋子、台所から戻ってきて卓に茶を出す。

拡   椿は今日は会わないと思うよ。
卓   何故ですか?
洋子  医師が来ているんですよ。昨日から体調が優れないと。
卓   ああ、そういえば熱っぽいと。
拡   そういうわけだ。悪いが、西條君、
卓   いえ、お兄様。ほんの少し話すだけですから。(大声で椿の部屋の方に呼びかける)椿さん! 椿さん? 僕です。西條卓です!
拡   なんということを。西條君、君は何を考えているんだ? 君には礼儀というものがないのか?
卓   椿さんにお会いしたいんです。
拡   いいか、君はもうじきこの柏崎の人間になるのだよ。それを、

  椿、現れる。

椿   大声でお呼びになって。そんな風に呼ばなくたって、参上いたしますわ。
拡   椿。
椿   皆さん、ごきげんよう。
卓   椿さん、どこかお悪いんですか? 医師が来ていたと。
椿   ええ、でも大したことありませんでした。少し風邪気味ですって。
洋子  お嬢様。お医者様はもうお帰りに?
椿   ええ、今私の部屋で片付けていらっしゃるわ。
拡   なんということだ。医者よりも早く部屋を出る患者があるか。風邪なら大人しく部屋で寝ていろ。
椿   ええ、お兄様。私もそのほうがいいかとも思ったのですけれど、西條様があんまり大きな声で私をお呼びになるものだから。
卓   すいません。ただ、どうしても椿さんにお会いしたくて。
椿   ・・・・・。
拡   椿、もう戻りなさい。結婚前に身体を壊されては困るんだ。
洋子  部屋までお連れします。さ、お嬢様。
椿   ・・・ねえ、お兄様。
拡   ?
椿   私、お兄様にどんなに感謝しても足りないわ。こんな素敵な殿方を私の前に連れてきてくださったんですもの。どんな殿方もこの方にはかないませんわ。
拡   ・・・・・。
椿   ねえ、お兄様。私と西條様の結婚、早めることはできませんの?
拡   早める?
椿   ええ。私、できることなら一日も早くこの方と夫婦になりたいと思うんです。
卓   椿さん、どうなさったんですか?
椿   どうして? あなたとの結婚を願うことがそんなに変?
卓   いえ・・・。
椿   ねえ、お兄様。
拡   ・・・結婚を早めることは、出来ないことではない。
椿   じゃあ!
拡   しかし、社交界での知り合い連中や柏崎の親戚縁者への発表もまだだ。
椿   それにはどのくらいかかりますの?
拡   どんなに急いだとしても、一ヶ月先か。
椿   一ヶ月。
卓   それはすごい。まだ婚約内定の段階なのに。
椿   だめ。それでは遅すぎます。もっと早くにならないの?
拡   もっと早く?
椿   ええ。
洋子  早めようと思えば、もっと早められますでしょう。
椿   本当に!
拡   ああ、確かに。しかし、椿。なぜそんなに結婚を急ぐ?
椿   何故?
拡   ああ。私はてっきり、お前は今回の結婚には、
椿   とんでもないですわ、お兄様! 卓様と結婚すると思うといてもたってもいられないのです。
拡   卓様?
椿   だって、こんなに素晴らしい殿方が目の前にいらっしゃるのに、何をためらうことがありましょう。それに、私は、早くお兄様に安心していただきたいの。
拡   安心?
椿   ええ。だって、お兄様はこの柏崎の家を存続させるために、本当に汗水たらして頑張っていらしたもの。私も柏崎の人間です。そんなお兄様の努力を無駄にはいたしません。私もこの西條卓様と早く結婚して、早く身を固めて、お兄様の肩に重くのしかかっているものを少しでも軽くしてさしあげたいの。
拡   椿・・・。それは、・・・本気か?
椿   ええ。今まで数々の非礼、お許しください。椿は、これより柏崎の人間として、世間に恥ずかしくないように努めてまいります。
拡   ・・・・・。

  間。

拡   ・・・・分かった。結婚の日取りをできるだけ早めよう。
椿   ありがとうございます、お兄様。
卓   私からもお礼申し上げます。ああ、椿さん。私は本当にあなたの夫になることができるのですね。
椿   ええ、卓様。私たち二人で、お兄様が守ってきた柏崎の家を守りましょう。
卓   はい。
拡   (思い出したように)ああ、そういえば椿の部屋にまだ医師がいたな。見送ってくるよ。洋子、お前も一緒に来なさい。

  拡と洋子、行ってしまう。
  椿と卓の二人になる。

卓   ああ、椿さん。私の心は今、喜びで満ち溢れています。
椿   私も嬉しくてよ、卓様。
卓   社交界であなたを初めて見たときから、ずっと私の心の中にはあなたがいたんです。美しい。なんて魅力的な女性だろうと。結婚した暁には、どんなことをしてでもあなたにこの世の苦労というものを一切させません。私は、
椿   (優しく)あまり多弁な殿方は望ましくありませんわ。

  椿、卓の手を取る。

卓   喜びで死んでしまいそうだ。
椿   ・・・お兄様は半年前の事故以来、不自由な身体になってしまわれた。本当は何よりもご自分がこの柏崎の家をお継ぎになりたいのよ。でも、それができない。だから私たちの結婚に全てを託していらっしゃる。せっかく貿易業で卓様が築いた財を柏崎によこせとまでおっしゃる。でもどうか卓様。そんなお兄様のことを軽蔑なさったりしないで。お兄様は必死なのよ。それに、今の柏崎家は卓様の力なしでは未来なんてありませんの。
卓   大丈夫です。私だって拡お兄様の気持ちはよく分かっているつもりです。それに、私はお兄様を尊敬しております。
椿   ・・・・。
卓   拡お兄様は、紳士の鑑です。柏崎家の男子はきっと代々ああなのでしょうね。私も拡お兄様のような紳士になれるように努めます。
椿   ええ、期待しております。でも、一つ勘違いなさってるわ。柏崎家は女の家系ですわ。
卓   え?
椿   私たちのお父様も、卓様と同じで婿養子でしたの。
卓   そうなんですか。
椿   ええ。柏崎の血を受け継いでいるのはお母様の方でしたわ。まあ、今となってはどちらも他界しておりますけれど。
卓   お父様は、紳士でしたか?
椿   ええ。柏崎の名に恥じぬ立派な方でした。
卓   私もそうなれるでしょうか。
椿   ええ、きっと。

  二人、接吻を交わす。

卓   脳の奥までおかしくなってしまいそうだ。
椿   ・・・・。
卓   本当はお話があって来たんですけど、もういいです。
椿   何故?
卓   あなたの気持ちが分かりましたから。何もかも私の取り越し苦労だったのかもしれません。本日はこれで失礼します。お体の調子が悪いんですから、部屋で安静になさっていてください。
椿   ええ、ありがとうございます。
卓   それでは、失礼します。

  卓、出ていく。
  椿、一人になる。
  椿、ため息をついてソファに座り込む。思いつめた表情。それは体調不良だけが原因ではないようだ。
  洋子、戻ってくる。

洋子  西條様はお帰りになりましたか?

  椿、洋子に気づいてそれまでの暗い表情をかき消す。

椿   ええ、つい今しがた。
洋子  拡様、驚いていらっしゃいましたよ。
椿   え?
洋子  お嬢様の口からあんな言葉がでるとは夢にも思わなかったようで。
椿   あんな言葉?
洋子  お嬢様が拡様を安心させるために結婚を早めて欲しいと。
椿   ああ。・・・そう。

  沈黙。

洋子  お嬢様?
椿   え?
洋子  大丈夫ですか?
椿   ・・・ええ。

  再び沈黙。

洋子  あの方、今日は早く帰ったんですね。昨日、夜になってからまたいらしたでしょう。
椿   知ってたの?
洋子  ・・・・。
椿   いやらしいわね。そんなことに目を光らせていたの?

  間。

洋子  様子は、どうです?
椿   ・・・相変わらずだそうよ。
洋子  治らないんですか?
椿   知らないわ。
洋子  結婚しても、このままのつもりですか?
椿   どうしてそんなことをきくの?
洋子  ・・・西條は、昨日あんなことになったのに、今日再びここへ来ました。今のままでは不毛です。向こうはあなたではない人を見ているのに。
椿   ・・・・・。
洋子  毎晩のようにあなたのもとへ人目を忍んでやってきて、朝一番で妻のもとに帰っていく。今までで、一体いくら渡しました?
椿   (答えない)
洋子  幸せになってください、椿様。どうか。
椿   ・・・椿という花はね、洋子。一枚一枚花びらが散るのじゃなくて、花ごとぼとりと地面に落ちるのよ。まるで誰かが首をはねられたようじゃなくて?
洋子  ・・・・。
椿   あの人は私と妻の間を行き来する。妻の顔を見るたびに、瞬きをしながら瞼の裏で私を思い出すの。目を閉じれば私、目を開ければ自分の妻。滑稽じゃない? あの人はそんなに悪い人じゃないからね。妻を前にしながら、どんなに後ろめたく思ってることでしょう。笑いがこみ上げてくるわ。
洋子  ・・・お嬢様は、そこまでしてあの男に想われたいんですか。

  沈黙。

椿   洋子、お前は汚い女ね。そんなにお父様たちが健在だったころの方がいいの? 私やお兄様のことを裏で口汚く罵っているんでしょう? あの頃の柏崎家には戻れないって? 戻れるわけないじゃない。お前みたいな汚らしい女がいたんでは。
洋子  ・・・・。
椿   私もどうやら、汚い女のようだけれど。私が誰かの首をはねるのかもしれないわ。
洋子  お嬢様?
椿   今日はもう休みます。身体の具合がよくなくてね。

  椿、立ち上がった途端ふらついて洋子に助けられる。

洋子  お嬢様? 大丈夫ですか?
椿   え? ええ。大丈夫よ。

  洋子、行こうとする椿を呼び止める。

洋子  お嬢様。それは、本当に風邪ですか?

  椿、振り返って洋子に微笑する。そのまま行ってしまう。



第2幕
第1場

  数日後、椿と卓の親戚縁者に対するお披露目のパーティーが終わった後。
  拡、椿、卓が談笑しているところで、洋子は三人に茶を出している。

拡   本当にいいパーティーだった。柏崎の親戚縁者にも卓くんは好印象だったようだし。これなら、安心して結婚式を迎えることができる。
卓   正式な場での経験が少ないものですから、どうなることかと思いましたけれど、皆様いい人ばかりで。
拡   安心しきってもいけないよ、卓くん。こういう世界は、外面と内面で考えていることが違うものだ。油断していたらすぐに足元をすくわれる。用心してかからなければね。まあ、これからは柏崎の名に恥じぬ立派な紳士になれるよう、私が色々教えねばな。
卓   よろしくご指導のほどを。
椿   お手柔らかに、お兄様。
拡   この家の当主になるのだから、生易しいことは言ってはいられない。だがまあ、気長にな。あまり厳しくしすぎて卓くんに音を上げられたんでは困るからね。
椿   まあ、お兄様ったら。
拡   ・・・正直なところ、私も最初は不安だった。本当に君にこの家を任せてもいいものかどうか。しかし、ほかに柏崎家が存続する道はないし。いや、君が紳士ではないと言っているのではないよ。ただ、分かるだろう? 自分が必死になって守ってきたものを、これからも守り続けるためとはいえ、誰か別の人間に渡さなければならないという事実がもどかしかったんだ。
椿   分かっておりますわ、お兄様。お兄様は今まで柏崎の家の為に本当に骨を折っていらしたもの。このあたりで私たち二人に任せてもバチは当たりませんわ。
卓   そうです。どうかご安心くださいませ、お兄様。
拡   まったく。我が柏崎家は安泰だよ。

  三人、笑顔を交し合う。

拡   さて。私はそろそろ出かけるかな。誰かが結婚を急ぎたいというから、片付けても片付けてもやらなければならない仕事が山積みだ。
椿   ありがとうございます、お兄様。
卓   私も何かお手伝いを。
拡   いや、卓くん。大丈夫だ。これは私の仕事だ。私にさせてくれたまえ。柏崎家の現当主として、残り少ない仕事はきちんと片付けていく。きみたちは二人して柏崎の将来についてでも話し合っておきたまえよ。
卓   お兄様。
拡   じゃあ、行ってくるよ。
椿   いってらっしゃい。
卓   いってらっしゃいませ、お兄様。

  拡、出て行く。洋子、台所へ消える。

卓   お兄様、上機嫌ですね。
椿   私たちの結婚が嬉しいんですよ。
卓   私も、嬉しいです。あなたと結婚できると思うと。

  椿、微笑する。

卓   椿さん。私は必ずあなたを幸せにします。
椿   ありがとうございます、卓様。
卓   椿さん。
椿   はい?
卓   ・・・・。
椿   どうしました?
卓   私は、必ずあなたを幸せにします。
椿   ・・・・。
卓   私はあなたを愛しています。愛しているからこそ、あなたの全てを受け入れます。
椿   全てを受け入れる?
卓   はい。私はあなたを愛しています。あなたも、私を愛しています。だから、あなたはきっと私のもとへ帰ってくるはずだ。たとえどこに行こうとも。
椿   ・・・・。
卓   結婚とは、そんなに脆弱なつながりではない。一晩の恋や一時の気の迷いや恋の駆け引きなんかで脅かされるものじゃない。必ず最終的には自分が結婚した相手のもとへ戻る。そんなものに脅かされるほど、結婚は甘いものじゃない。
私は、あなたを受け入れます。私があなたの姿を初めて見たとき、あなたの隣には男性がいた。二度目に見かけたときには、また別な男といた。そして、三度目も。その次もその次も。それでもあなたとの縁談が持ち上がったとき、私は嬉しかった。あなたと結婚できるなら、何を捨ててもいいと思った。そして、ここへ初めて来たとき、またそれまで見たことのない男に会いました。
椿   ・・・・。
卓   それでも、あなたは私との結婚に承諾してくれた。日取りを早めてくれとまで言う。私は、あなたを愛しています。あなたも、私を愛している。きっと。
誰かほかの男のところへ行っても、必ず私のもとへ帰ってきてくれる。私は、それだけで十分です。だって、そこには私への愛があるから。・・・ですよね?
椿   ・・・・。
卓   私はあなたを愛しています。あなたは、私との結婚を早めてくれとまで言った。きっと、あなたも私を愛している。きっと。
椿   ・・・私は、あなたが思ってるほど綺麗な女じゃない。あなたを目の前にしていても、瞼の裏でもあなたを見ているとは限らないわ。
卓   私はあなたを愛している。私たちは結婚する。その事実だけで、私に安心させてください。
椿   ・・・・。
卓   大丈夫ですよ。私はあなたを愛しています。
椿   私は、・・・幸せ者です。バチがあたるわ。
卓   あなたと早く夫婦になりたい。結婚したい。
結婚の日までが飛ぶように過ぎてほしい。余計なことなど何も考える暇もないくらい早く。
椿   ・・・考える力がなかったら。気でも違ってしまえたら。
卓   大丈夫です。私はいつでもあなたの隣にいますから。

  二人、抱き合う。

卓   ・・・もう、行かなければ。
椿   明日もいらして。
卓   ええ、必ず。
椿   明日も明後日も、必ずいらして。私が他のことを考える暇もないくらい、結婚までのあいだ、ずっと今おっしゃったことを私に言い続けて。
卓   ええ。約束します。
椿   必ず。必ずいらしてね。
卓   ええ、必ず。

  卓、去る。
  椿、一人になる。

椿   ・・・バチがあたるわ。バチがあたる。バチがあたるわ。バチが・・・。
気でも違ってしまえたら、どんなにか楽でしょうね。でも、私の気が違ってしまったら、私を頼って毎晩ここに来るあの人のことは、一体誰が助けるの? 私がお金を渡さなかったら、あの人はどうするの? 自分の愛する妻の治療費を、どうするの? バチがあたるわ。私はそんなに綺麗な女じゃない。お兄様の軽蔑にも及ばないような汚らしい女よ。だって、私はあの人を愛し、あの人とのことを隠すために、他の男たちとも関係をもった。そして、今、・・・ああ!

  椿、吐き気をもよおして嘔吐する。

椿   ・・・何かが、今よりもっと違えばよかったのに。

  やがて西日とともに司郎が現れる。

司郎  椿さん。

  椿、司郎の呼びかけに一瞬身をこわばらせる。
  そして、ゆっくりと司郎を見る。

椿   司郎さん・・・。

  沈黙。

司郎  どうしました?
椿   え?
司郎  顔色があまりよくないから。
椿   ああ、今日は色々と忙しくて。
司郎  ?
椿   柏崎家の親戚縁者に西條のお披露目のパーティーを。新しく親戚が増えると、多くの人々が出席したのだけれど。結局のところ、皆実業家の西條卓という人物に少しでも近づこうという魂胆が見え見えで。
司郎  さすが西條、というところですか。
椿   そうね。でも、西條自身は柏崎家に関係ある人間たちに悪い人はいないだなんて思ってるから。社交界はそんなに甘いところではないのに。私がしっかりしておかないと、西條の莫大な財産が騙し取られるようなこともないとは言い切れないわ。
司郎  ありがとうございます。
椿   え? 何が?
司郎  いや。つまりは、椿さんには私の妻の治療費のことでとても親身になっていただいて。本当に、何とお礼を申し上げればいいのか。
椿   ・・・気にしなくていいのよ。私は大丈夫だから。
司郎  はい。

  間。

司郎  椿さん、本当に大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ。
椿   司郎さん、ごめんなさい。今日は帰っていただけるかしら。
司郎  ・・・・。
椿   今日は本当に疲れてしまって。ゆっくり休みたいの。
司郎  ・・・今夜は先客がいるということですか? また別な男が?
椿   違うわ。今日は違う。今日は本当に疲れてしまったの。
司郎  ・・・ひょっとして、西條様が? 西條様がお部屋に?
椿   ・・・・・。
司郎  申し訳ありません。出過ぎたことを申しました。
椿   ・・・・・。
司郎  今日はもう失礼します。

  椿、帰ろうとする司郎を呼び止める。

椿   待って。
司郎  はい?
椿   司郎さんたら。決め付けないでくださらない? 西條はもう帰ったわ。
司郎  お帰りに?
椿   ええ。私が西條なんかに気を遣って、あなたに帰れだなんて言うわけありませんわ。私、他の男のためにあなたを追い返すようなことは今まで一度もしておりませんもの。
司郎  ・・・椿さん。
椿   はい?
司郎  自分の結婚するお相手のことをなんかだなんて言ってはいけません。
椿   え?
司郎  ・・・だってあなたは、その西條様と結婚なさるんでしょう?
椿   ・・・・・。
司郎  椿さん。あなたは分かってらっしゃらない。結婚すれば、毎日毎日顔を突き合わせるんです。
いいですか、椿さん。あの西條とかいう男は、気を病んでいるわけではない。抜け殻のように窓辺に腰掛けて、息だけをして毎日毎日過ごしているわけではない。目の前の人間を誰だか分からないわけじゃない。ちゃんと妻であるあなたをあなたとはっきり確認できる。あなたに何か言うことができる。

  間。

椿   泣いてらっしゃるの?
司郎  ・・・あなたの心は、きっと西條へ向く。私のことなど忘れてしまう。私のことなど、誰も覚えてはいなくなる。
椿   どうなさったの、司郎様?
司郎  え?
椿   どうして、そんな悲しそうな顔をなさるの?
司郎  どうして?

  間。

椿   大丈夫よ、司郎様。きっとうまくやってみせるわ。きっと、そうよ。ええ、きっと。だって、西條は私の言うことには、きっと全て従いますもの。私が黒といえば、彼のなかで白だったものも黒になりますわ。だって、西條は私のことを・・・、

  沈黙。

司郎  今日は、もう帰ります。
椿   嫌! 行かないで。ここにいて。私を独りにしないで。

  椿、司郎にすがりつくように接吻する。

椿   独りにしないで。私を捨てないで。
司郎  ・・・部屋に行ってもいいですか?
椿   ・・・ええ。

  二人、去る。
  暗くなって、拡が帰ってくる。

拡   なんだ? 誰もいないのか?

  洋子、出てくる。

洋子  お帰りなさいませ。
拡   なんだ、明かりもつけないで。

  拡、明かりをつける。自嘲的に笑う。

洋子  どうしました?
拡   いや、おかしくてな。
洋子  ?
拡   この私が伯爵柏崎家の当主か。無様なものだ。お前に茶を出すだの出さないだの、小さなことをくどくどと。結局私は給仕をするお前よりも客人に茶を出すだとか、暗くなったら明かりをつけるだとか、窓の桟に埃がたまっているだとか、そういうものに気がついてしまうような男だということなのだ。そう思うと、笑いがこみあげてくる。
洋子  ・・・・。
拡   結局、私はそんな器ではないのだな。最初から伯爵家の当主などにはなれぬ器だったのやもしれぬ。
洋子  どうなさったんですか、拡様?
拡   これでよかったのかもしれん。椿は、あまり世間に自慢できるような女ではなかったが、結婚を目前にしてようやく自覚がでてきたようだし。卓くんだって、少し下品なところもあるが悪い男ではない。振る舞いなどはこれから伯爵家の人間に相応しいように直していけばいい。
私は、事故にあってよかったのかもしれん。
洋子  拡様、なんてことを!
拡   私が柏崎の家を継ぐことを、死んだ両親が阻止したのかもしれん。
洋子  何故? だんな様と奥様がそんなことをするはずがないでしょう。
拡   いや、わからんぞ。父は婿養子の身でありながら、妾が何人もいた。さしずめ、そうだな、恋多き男か。
洋子  ・・・・。
拡   私は、その恋多き男が妾の一人に生ませた子供かもしれん。それでは柏崎の血を継げない。柏崎の血は母の方にあったのだから。私はそうなるべくして事故にあった。だからこそ、私はあの事故で結婚できない体になった。恋など決してできない体に。
洋子  恋ができない?
拡   いや、何でもない。忘れてくれ。

  椿、現れる。疲れきった表情。
  拡、椿に気づく。

拡   椿。
洋子  お嬢様!?
椿   お兄様、お帰りなさい。
拡   ああ、つい先ほど帰った。結婚までの日取りがあと一週間になったぞ。
椿   一週間。
拡   ああ。急いだのはいいが、そのかわり準備の期間も短くなった。まあ、結婚後も生活はこの家でするし、どうしても必要なものは卓くんに言えば全て揃えてもらえるさ。ああ、それと、新婚旅行のことだが、
椿   お兄様。
拡   うん?
椿   ありがとうございます。私のわがままを聞いていただいて。
拡   なんだ、急に。
椿   少しのどが渇きません? 洋子、ワインがなかったかしら?
洋子  ワインだなんて、お嬢様。平気なんですか?
椿   何が?
洋子  いえ。別に。
拡   ワインか。そうだな。今日は疲れたし。一杯ぐらい飲んでもいいかもしれん。洋子。
洋子  はい。
拡   あの奥の棚の、上から二段目にある、・・・。

  拡、ふと思い当たって言葉を切る。

拡   いや、私が取りに行くよ。
椿   お兄様が?
拡   ああ。たまには自分から動くのもいい。

  拡、去る。
  椿と洋子の二人が残される。

洋子  お嬢様。どうなさったんですか?
椿   何が?
洋子  夜には絶対にご自分の部屋から出て来ないのに。今夜は?
椿   ・・・今、あの人は、私の部屋にいるわ。私が戻ってくるのを待っているのよ、一人で。たまには待たせるのも悪くないわね。
洋子  お嬢様、もうやめてください。ご自分でも分かっていらっしゃるはずです。これ以上続けても何にもならないでしょう。お嬢様が苦しくなるだけです。
椿   そうよ、洋子。私が苦しくなるだけよ。だからお前が苦しむことはないの。
洋子  お嬢様。私はあなたが苦しむのを見ていられないのです。
椿   お前にそんなに心配されるだなんて気持ち悪い。お前はただ過去にすがりついて、私やお兄様のことを裏で罵っていればいいのよ。何なら気でも違ってみる? あの人の愛しい奥様のように。
洋子  お嬢様!
椿   うるさい! お前なんかに一体何が分かるっていうの。
洋子  分かります。私にはお嬢様のお気持ちがよく分かります。
椿   嘘よ。放っておいて。
洋子  放っておけません。あなたは、私が生んだ子供なんですから。
椿   ・・・・なんですって?
洋子  ずっと、見てきました。見てきたんです。あなたを柏崎の奥様に取り上げられて、それでも放っておけなかった。奥様とだんな様が亡くなられて、他の者たちがお屋敷を去っても、私は去れなかった。在りし日のだんな様に生き写しの拡様と、私とあの方の娘がここにいる。この屋敷で生きている。ああ、しかも今、あなたはあの時の私と同じように他に愛すべき女のいる殿方に心奪われている。これがどうして放っておけますか。放っておけるわけがない。あの方との大切な娘。
椿   やめてちょうだい! 汚らわしい! 私がお前の娘? この私が? お前の? ええ? 冗談じゃない。
洋子  だから、私はあなたの気持ちがよく分かるんです。このまま続けていても不毛ですよ。西條なら、きっとあなたを幸せにしてくれる。気持ちは痛いほどによく分かります。もう止めてください。
椿   ・・・お兄様はまだかしらね? ワインが待ち遠しくてよ。
洋子  椿!
椿   黙りなさい、洋子! 仮にお前が、本当に私の母親であったとしても、そんなことはもうどうでもいいのよ。ええ、そうよ。どうでもいいの。私はもうじき西條と結婚するわ。西條はその全財産を持参金にこの家に入るのよ。私のことが愛しいあまりにね。そして、そうよ。西條が私に捧げるその金で、私はより一層あの人を助けることができる。
洋子  結婚しても、今の関係を続けるということですか?
椿   勿論よ。何故、西條ごときのために私が心を変えなくてはならないの?
洋子  私から言わせれば、あの男の方がごときです! 妻がいながら、別の女に手を出すなんて。しかも、その女に自分の妻の治療費を出させるなんて。
椿   分からないわね、洋子。お前だって同じだったって、さっき言ったばかりじゃない。
洋子  私はあなたに同じ思いをしてほしくないんです。
椿   偽善ね。でも私は大丈夫。きっとうまくやってみせる。妻がいるから何? きっとうまくやってみせるわ。
洋子  もうやめてください。もう十分でしょう。あなた自身のその選択が、あなたを苦しめることになる。
椿   大丈夫よ。きっとうまくやってみせる。きっとよ。

  拡、ワインを持って戻ってくる。

拡   いや、すまん。遅くなった。途中で別のところにもっといいやつがあるのを思い出してな。(二人のいつもと違う雰囲気に気づいて)どうした?
椿   お兄様、早く飲みましょう。
拡   ああ。
椿   洋子、グラスを。
洋子  ・・・はい。

  洋子、台所に去る。グラスを持って戻ってくる。
  拡、グラスにワインを注ぐ。

椿   乾杯。
拡   乾杯。



第2場

  一週間後、椿と卓の結婚式当日。
  普段より慌ただしい柏崎家。
  洋子が一人でいる。

洋子  ついに、この日が来てしまった。だんな様、今日、あの子は結婚します。

  拡、現れる。

拡   洋子、こんなところで何をしている。
洋子  すいません。
拡   謝っている暇があったらさっさと働くんだ。準備はまだ終わっていないぞ。
洋子  はい。

  洋子、去る。
  卓がやってくる。

卓   おはようございます、お兄様。
拡   卓くん、どうした? こんなに早く。
卓   婿として家から出る前に、どうしてももう一度椿さんに会いたくなって。
拡   卓くん、それはいいが、時間が。
卓   大丈夫です。椿さんに少し会って話せば、すぐに家に戻って支度します。
拡   まったく。結婚式当日までそうなのか。君の態度には敬服するよ。
卓   ・・・・。
拡   卓くん。
卓   はい。
拡   椿はあまり人に自慢できるような女じゃない。それでも、そんな妹を貰ってくれる君に、私はどんなに感謝の言葉を述べても足りないよ。ありがとう。
卓   そんな。とんでもないことです。こちらこそ、こんな私を伯爵家柏崎様の家に入れていただけること、身に余る光栄です。
拡   身に余る光栄か。君が初めてここに来たときもそう言ったな。
卓   ええ。私は拡お兄様を尊敬しています。自分も、お兄様のような立派な紳士になれるように努めます。
拡   私は君が思ってるような紳士ではない。私は、・・・どんなに頑張っても柏崎の家は継げないんだ。私は君にかなわない。
卓   お兄様?
拡   伯爵家の男子たる者、跡継ぎを作れないようでは、生きている資格などない。
卓   え? 今何と?
拡   柏崎家の新しい当主が、そんな顔をするな。・・・あとは任せたよ。卓くん。
卓   ・・・お兄様・・・。

  椿、現れる。

椿   声が聞こえるかと思ったら、やはりいらしていたのね。卓様。
卓   椿さん・・・。
椿   支度はどうしたの?
卓   ・・・・。
拡   さて。私はいろいろ仕事があるから、もう行くよ。卓くん、くれぐれも遅れないように。

  拡、去る。
  沈黙。

卓   椿さん。ついにこの日を迎えました。結婚するんですよね、私たち。
椿   ・・・・。
卓   必ず、必ず幸せにします。

  沈黙。

卓   (つとめて明るく)椿さんは、どんな家庭をつくりたいですか? 
椿   (答えない)
卓   私は仕事で海外にいくことが多いけど、結婚後はできるだけ時間をつくって色んなところへ旅行に行きたいですね。日本国内もいいかもしれない。どこかの温泉に行って、湯につかって日々の喧騒を忘れ、のんびりと過ごすのもいいものでしょうね。
椿   ・・・・。
卓   それから、そうだな。朝食は和食にします? それとも洋食に? 私は洋食の方がいいですね。パンと卵。ベーコンをカリカリに焼くのも悪くない。
音楽は何か聴かれますか? 私、蓄音機を持ってるんですけど、もっぱらクラシックばかりで。日本人のなかには、クラシックは性に合わないという人もいますけど、椿さんは?
椿   ・・・私は別に。
卓   普段はどういった音楽を聴かれます?
椿   ・・・・。
卓   ・・・子供は、何人ぐらい欲しいです? 私は、そうだな。賑やかな家庭がいいですから、多いほうがいいですね。家を継がせるために男の子はいた方がいいとは思いますけど、女の子も欲しいですね。きっと椿さんによく似た魅力的な女性になりますよ。

  沈黙。

卓   椿さん・・・。何か言ってください。
椿   ・・・・。
卓   椿さん、椿さん、椿さん、椿さん、椿さん。愛しています。心から。

  沈黙。

卓   ・・・もう、行かなければ。支度がありますから。椿さんもそろそろ支度に取り掛からないと。
椿   ・・・・。
卓   じゃあ、また後で。
椿   ・・・・。

  卓、去る。
  司郎、椿の部屋から現れる。

司郎  帰りましたか?
椿   ・・・私、そろそろ支度しないと。
司郎  ・・・・。
椿   (耐え切れなくなったように)ごめんなさい。今日はもう帰ってもらえませんか。
司郎  何故ですか?
椿   ・・・お願いします。今日は本当にお引取りになって。でないと、私、おかしくなってしまいそうよ。
司郎  後ろめたいんですか? あの男に。
椿   違う、違うわ。お願い、分かって。違うのよ。
司郎  ・・・・・。
椿   お願い。お願いよ。今日だけは、どうか。

  卓、戻ってくる。

卓   (司郎に気づいて)お前は、あの時の!
椿   卓さん、どうして?
司郎  ・・・・。
卓   どうしてここに? 椿さん、これは一体どういうことですか? どうしてこんな日にこんな男がこんなところにいるんですか? 椿さん!
椿   卓さん、これは・・・。
司郎  ・・・・。

  沈黙。

卓   どうして? あんまりだ。
司郎  西條様。私は別にあなたがたの結婚を邪魔する気はありません。
卓   ・・・・。
司郎  自分勝手なことだとは思います。でも、私は椿様との関係がなくなれば、妻の治療費を出してやれないんです。気の病は、いくら金があっても足りないんです。
卓   貴様、自分の言ってることが分かってるのか。
司郎  後生です。他に方法がないのです。私は妻の笑顔をもう一度見たい。
卓   私に、自分の愛する妻が知らぬ男に陵辱され、金づるされるのを指をくわえて見てろというのか。
司郎  後生です。西條様。
卓   黙れ。・・・どうして? どうしてお前みたいな男に、椿さんが・・・。椿さんはお前のために今までどれだけのものを犠牲にしてきたか分かってるのか。恋多き女と呼ばれるに至ったのも、お前との不義の関係を隠すため。自分が他の男にも手を出せば、妻のいるお前との関係が少しでも隠せるだろうと。
椿   卓さん、・・・どうして?
卓   ・・・調べたんですよ。自分の金が絡むとなると、相手がどんな人間なのか調べずにはいられない。商売人というのは、嫌な生き物です。
椿   ・・・・。
卓   でも、調べれば調べるほど、あなたがどれほどこの男を愛しているのかが分かるだけだった。
(司郎に)なのにお前はどうだ。お前は自分のことをこんなに想ってくれている女性の前で、別な女のことを口にする。しかも、気が違っていて目の前の人間を誰とも判別できないような女のことを。夫のことすら分からない気違い女のことを!
司郎  ・・・・。
卓   どうして、貴様なんかに椿さんが利用されなきゃならない? どうして、貴様にそこまで全てを踏みにじる資格がある? 椿さんは、貴様のために妊娠までしているのに!

  一瞬の沈黙。

司郎  え? ・・・どういう・・・?

  司郎、椿を見る。

司郎  子供ができた?
椿   ・・・・。
司郎  妊娠しているんですか? 今。あなたは。
椿   ・・・・。

  間。

司郎  (椿に)それは、誰の子です? まさか私の子供ではないでしょうね? 分かるでしょう? 分からないんですか? ・・・あなたは恋多き女だ。私以外にも多く男はいたでしょう。私の子供とは限らない。
卓   貴様!
司郎  私は妻を愛している! 

  卓、ピストルを出して司郎に向ける。

卓   ぶっ殺してやる!
椿   やめて!
卓   ・・・・。
椿   やめて。お願い。やめて。この人を殺さないで。
卓   ・・・椿さん、・・・どうして?
椿   お願い、この人を殺さないで。お願い。

  司郎、逃げ去る。卓、成す術もなく司郎を見送る。
  椿と卓、二人になる。
  沈黙。

卓   ・・・人生は、思い通りにはいかないものですね。
椿   ・・・私には、もともと柏崎の血なんて流れていないのよ。流れているのは、情欲に満ちた汚い女の血。
卓   ・・・私では、だめなんですか?
椿   (答えない)
卓   (ソファに置いた帽子を手にとって)帽子なんか被ってくるんじゃなかった。慣れないことをするから、忘れて行ったりするんだ。
椿   卓さん、ごめんなさい。本当にごめんなさい。本当に。
卓   もう行きます。
椿   ・・・・。
卓   椿さん。愛していますよ、心から。

  卓、去る。
  椿一人になる。
  そこへ拡と洋子がやってくる。

拡   どうした、椿。まだこんなところで油を売っていたのか。いい加減もう時間がない。卓くんはもう帰ったんだろう?
椿   ・・・ええ。つい今しがた。
拡   だったらお前も早く支度にとりかかれ。
洋子  お嬢様。大丈夫です。きっと大丈夫。人生は長いんです。これから一緒にあらゆる苦難を乗り越えれば、きっと卓様と幸せな夫婦になれます。
椿   そう思う? 洋子。
洋子  ええ。きっと。
拡   さあ、早く支度にとりかかれ。もう皆集まっている。
椿   ・・・・私、

  椿の言葉を遮るように、一発の甲高い銃声が響く。

拡   何だ?

  洋子、銃声のした方を見に行く。
  しばらくして、洋子の叫び声。
  拡も様子を見に行く。しばらくして悲鳴のような拡の声。

拡   (声のみ)卓くん!

  洋子、戻ってくる。

洋子  お嬢様、今、卓様が、西條卓様が、・・・ピストルで自分のこめかみを・・・!
椿   ・・・・。

  陽光が、静かに部屋に差し込んでいる。
  あとには沈黙が残るのみ。



                             幕



 
シアターリーグ > シナリオ > camellia >