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ブラックボックス
作 本保弘人
 


  男は眠り続けている。夢も見ないような深い眠りのようだ。
  女は床に座り、本を読んでいる。時折、男を気にしてか、そちらの方へと目をやる。
  物音は全くしない。まるで彼ら二人を残して、生きとし生けるものは全て死に絶えてしまったかのような静けさだ。
  男、ゆっくりと目を覚まし、寝ぼけ眼で辺りを見回す。ここがどこだかわかっていないようだ。

男 (女を見て、誰かわからずに)え?
女 (親しげに)おはよう。
男 ……ああ。
女 よく寝てたわ。
男 え?
女 まるで遊び疲れた子供みたいに。
男 そう…。君は?
女 まだ眠たい? 寝たいだけ寝てていいのよ。
男 ああ。いや。
女 だいぶはかどったわ。といってもこれ一冊しかないから、もう読むのは3回目なんだけどね。
男 …そう。
女 でも不思議と飽きが来ないの。内容が良いからね、きっと。
男 ねえ、君は誰?
女 ……憶えてないの?
男 ??…え?
女 わからないの?
男 …憶えてない。
女 そう。なら無理に思い出さなくてもいいわ。
男 あれ? ちょっと待って。
女 何?
男 僕は…。
女 え?
男 僕は誰だっけ?
女 それも憶えてないの?
男 待ってすぐに思い出すから。
女 うん。
男 ええ…、ああっと…。
女 ねえ。
男 ん?
女 名前は?
男 え?
女 名前ぐらい憶えてるでしょう?
男 うん。ええと…。
女 名前も憶えてないの?
男 いや、そんなはずないんだけどな。おかしいな…。「な」、「な」。
女 何?
男 確か「な」で始まったと思うんだけど。
女 な?
男 な。な、な…。
女 「ななし」じゃないの?
男 こんな時に冗談いうなよ。
女 冗談はそっちでしょう。名前も思い出せないなんて。
男 仕方ないじゃないか。時間をかければ思い出せるって。
女 いいわよ。別に無理して思い出さなくても。特に知りたい訳じゃないんだから。
男 何だよ、それ。
女 言葉通りよ。
男 なあ。
女 何?
男 ………、いや別に。
女 言いたいことがあるならはっきり…
男 (遮るように)黙っててくれないか。思い出せないから。
女 喋ってるのはあなたじゃ…。
男 だから…、ああ、今思い出しそうだったのに。
女 ……ごめん。

  間

男 いや…。

  間

男 (辺りを見回して)ここはどこなのかな?
女 どこだと思う?
男 え?
女 (いたずらめかして)さて、ここはどこでしょう?
男 あのさ…。
女 ん?
男 そんな風に言ってないで教えろよ。
女 どこだっていいじゃない。
男 良くないよ。
女 ここがどこかでなければ、あなた困るわけ?
男 え?
女 困るわけ?
男 何言ってるんだ?
女 どこだって別にいいじゃない。
男 そんなわけにはいかないだろう。
女 どうして? あなたこれから何かすることあるの?
男 何かって、そりゃすることくらいあるさ。
女 例えば?
男 うん、そうだな。ええと…。
女 何もないんでしょう。
男 あるよ。
女 名前も思い出せないくせに。何をするかなんてわかるわけないじゃない。
男 そんな言い方ってないだろう。俺だって好きで思い出せない訳じゃないんだから。
女 あなたは思い出したくないの。そう望んでるの。だから思い出せないの。
男 決めつけるなよ。なんでそんなことわかるんだよ。
女 わかるわよそれくらい。わたし、あなたが思うほど馬鹿じゃないのよ。
男 誰も君が馬鹿だなんて言ってないじゃないか。
女 言ったわよ。
男 いつ?
女 あの時。
男 あの時っていつだよ。
女 あの時よ。
男 それじゃわからないよ。
女 だからいいって言ってるでしょ。無理にわからなくっても。
男 君と話してると頭が痛くなる。
女 風邪でも引いたんじゃないの。
男 いやそういうことじゃないだろう。
女 何もかけないで寝てるからよ。裸足だし。
男 ……いつから俺は寝てたんだっけ?
女 さあね。
男 さあねって、だってずっとそばにいたんだろう?
女 そうだけど。
男 じゃわかるはずじゃないか。
女 気がついたらいたのよ。
男 いつ気がついたんだよ。
女 だから気がついたらいたのよ。
男 話にならない。
女 わたしは別に話したくなんかないのよ。
男 そういうことじゃなくて…。
女 あなたが話しかけてくるんでしょう。
男 …ああ、そうだよ。そうですよ。もういいよ、帰る。(辺りを見て)出口どこ?
女 何、出口って?
男 出口は出口だろう。
女 ないわよ、そんなの。
男 ないって…。そんなわけないだろ。だったら君はどこから入ってきたんだよ。
女 知らない。
男 知らないって…、じゃいつから君はここにいるの?
女 気がついた時からよ。
男 いつ気がついたの?
女 いつの間にかよ。あなたこそどうしてここに来たの?
男 え?
女 来たくてここに来たんでしょう?
男 そんなことないよ。誰が望んでこんなところに来るんだよ。
女 でも来てるじゃない。
男 いや…、ああ、本当に頭が痛い。
女 頭痛薬なら…。
男 そうじゃなくて…。

  短い間

女 そんなところで…。
男 風邪じゃないからな。

  間

男 何なんだここは?
女 いいところでしょ。
男 どこがいいところなんだよ。何もないじゃないか。
女 何もないって最高じゃない。
男 どこが最高なんだよ。何もなけりゃ生きて行けないじゃないか。
女 そんなことないわよ。だったら何でわたしはここでこうやって生きているの?
男 知らないよ。
女 だから何の心配もないの。ねえ、あなたも余計なこと考えないでさっきみたいに寝てなさいよ。
男 いやだね。こんなところ一刻も早く出てやる。
女 でも出口なんてないのよ。
男 出口も入り口もない部屋なんてないんだよ。なければそれは部屋とはいわない。ただの箱だ。
女 じゃ、ここは箱なのね。箱の中。
男 なんでもいいさ。とにかく、どこかに隠し扉があるはずだ。

  男、壁という壁を手探りする。その間、女、また本に目をやる。

女 いいわ、勝手にそうしてなさい。こっちもこっちでやってるから。
男 ああ、勝手にやらせて貰う。とにかくずっとここにいるなんてごめんだからな。
女 ねえ。
男 何だ。
女 荒野の話をしましょう。
男 何だって?
女 荒野。荒れた野の話。海の向こうのそのまた向こうに果てしなく広がる石の荒野がありました。
男 何で急にそんな話をはじめるんだ?
女 いいじゃない。したくなったんだから。
男 するならもっと現実的な話をしろよ。何だよ荒野って。
女 だから荒れた野のことよ。
男 それはわかってるよ。
女 じゃ聞き返さないで。石の荒野には何億年もの間、人は一人として近づかず、ただ光と影だけが、繰り返し、繰り返し、大地の上を滑っていきました。
男 ねえ。
女 ある夜のことです。岩と岩との間から水が溢れ出ました。水は絶えずあふれ出し、流れとなり、瀬となって…。
男 ねえったら。
女 瀬をはやみ岩にせかるる…。
男 あのさ。
女 何よ。これからいいところなのに。
男 いいところを邪魔して申し訳ないけれど、何か食べるものない? 食べ物くらいあるんだろう?
女 ないわよ、そんなの。
男 ない? 嘘だろ?
女 嘘ついてどうするの。
男 君は食べてないの?
女 ええ。
男 いつから?
女 憶えてないわ。
男 憶えてないってどういうことだよ。
女 それくらい長くってことよ。
男 三、四日?
女 (笑う)そんなわけないでしょ。あなた、私、九十歳のおばあちゃんじゃないのよ。
  三、四日前のことくらい憶えてるわ。もっと、ずっと長くよ。
男 そんなんで良く生きてるな。
女 良くも何も、生きられるのよ。
男 ここに来る前は食事はしてたんだろう?
女 そうだと思う。よく憶えてないけど。
男 憶えてない?
女 ええ。
男 じゃ、君も…
女 (きっぱりと)私はあなたとは違う。記憶に問題があるわけじゃない。

  短い間

男 そう。
女 うん。

  男、壁をしばらく調べてから床に座り込む。

女 話を聴いて。
男 ああ。
女 流れは激しく…
男 流れ?
女 さっきの話の続き。水の流れが激しいってこと。
男 ああ。
女 流れは…
男 あのさ。
女 何よ。
男 じゃ、何も食えないってこと?
女 そうよ。それさっきも言った。
男 ちょっと待ってよ。俺は食事抜きなんてごめんだからな。
女 大丈夫。すぐに慣れるから。
男 慣れるってどういうこと?
女 すぐにわかるわ。

  男、諦めて床を調べ始める。

女 ねえ、話は?
男 後で。

  女も諦めて再び本を開く。

男 ねえ?
女 ん?
男 何読んでるの?
女 教えない。
男 どうして?
女 いいじゃない。
男 まあ、いいけどさ。

  間

男 畜生。どこにも何にもありゃしない。
女 だからいったでしょう、出口なんてないのよ。
男 それじゃずっとこのままなのかよ。
女 そういうことね。
男 君はそれでいいの?
女 いいも何も仕方ないじゃない。そういうことなんだから。
男 君はどうかしてる。
女 自分の名前も思い出せないくせに、そんなこと私に言えるの?
男 君は? 君はなんて名前?
女 教えてあげない。
男 君も憶えてないのか?
女 そんなわけないでしょう。
男 じゃ教えろよ。
女 いやよ。
男 どうして。
女 どうしても。
男 僕には教えたくないってことか。
女 そうよ。
男 勝手にしろ。
女 ええ、勝手にするわ。
男 くそ!(床を殴る)
女 やめなさいよ、みっともない。
男 何だと。
女 そんなの大人のすることじゃないわ。
男 なんだよ大人って。
女 毛があることよ。
男 毛って…、なあ。
女 毛があるから怪我するわよ。
男 つまらないな。なんだよそれ。
女 洒落よ。
男 それはわかるけどさ。つまらないよ。馬鹿か君は。
女 ほら、馬鹿って言った。あなたの悪い癖。
男 (呆れて)……。
女 話の続きをしましょう。
男 話?
女 さっきわたしが話してたでしょう。
男 勝手にやってろ。
女 いいから。話をしましょう。
男 話をしてるのは君だけだろう。
女 ならわたしの話を聞いて。
男 …(ため息をついて)いいよ。聞こう。(壁を背にして座る)
女 わたしのことを憶えてる? わたしの声、わたしの感触。
男 え?
女 思い出して、わたしのことを。
男 それ、僕にいってるの?
女 他に誰もいないでしょう?
男 そうだけど。
女 荒野の話をしましょう。誰もいない荒野。一筋の川が流れる。風が弔いのうたを歌う。川の流れはとても激しく、あなたと私を押し流す。生と死の時間。
男 え? 何それ?
女 思い出した?
男 いいや。どういうこと? どうして俺と君が出てくるの?
女 わからない?
男 わからない。
女 そう。残念ね。
男 どういうことだよ。
女 残念ね。そうでしょ?
男 …そうだな。
女 眠りたいわ。
男 え?
女 眠っていい?
男 ああ。
女 でも変な気、起こさないでね。っていってもそんな心配ないか。
男 あのさ……。ああ、俺は好きでもない女とはそういう気にはならない。
女 そうじゃないの。ここでは必要ないのよ、そんなことは。
男 え?
女 必要ないの。
男 どういうこと?
女 いいの、わからなくて。おやすみなさい。(女、眠りに落ちる)
男 ちょっと、

  男、女がすでに眠っていることに気づく。

男 なんなんだ一体?

  男、壁を叩くがそれはびくともしない。
  指で、慎重に隙間を探すが、見つからない。

男 …一体…?

  男、頭を抱え、しばらくの間。うずくまる。記憶に手が届く一歩手前で何かが邪魔をしている。
男 枯葉の、枯葉の音。二人で枯葉を踏みしだく音。あれは一体いつのことだ? それとも夢なのか? 俺の夢なのか? 誰かの夢なのか?

  男、女に近づき、しばらくその寝顔を見守る。

男 誰なんだ君は?

  男、再び壁に向き合う。どこを見回しても出口はない。
  男、ふと思い当たって、服に手をやる。尻のポケットに何か入っていることに気がつく。 折りたたみ式のナイフだ。
  男、ナイフを壁に突き立てようとするが、ビクともしない。続いて水平に刃をあてて左 から右に引くが、壁には傷一つつかない。
  男、何度も何度もナイフを壁に刺そうとするがその度に跳ね返される。
  壁にナイフを投げつけるが、それは空しく床に落ちる。
  ナイフを拾い上げ、それを無言で見つめる男。ふいに視線が、女に向かう。
  男、女に歩み寄り、その首筋にナイフを突きつける。
  目を覚まして驚く女。

女 何?
男 君だろう。
女 え?
男 君が僕をここに閉じこめてるんだろう。
女 何のこと?
男 監視役なのか君は?
女 何言ってるの?
男 いいから早くここから俺を出せ。
女 何を言っているのかわからない。
男 ここからの出方を教えろって言ってるんだよ。
女 また妄想癖? いい加減にして。
男 じゃ、他にどう説明しようがある? 牢獄のような空間。そこに俺が一人。仲間のふりをした監視役。映画で良く見る。
女 それは映画でしょ? あなたわかってないの?
男 わかってないも何も、そうとしか考えようがない。
女 狂ったの?
男 じゃ、教えろ。君は誰で、ここはどこだ?

  間

女 その手には、乗らないわ。
男 ……。
女 あなたの性格はお見通しだから。
男 …(視線を逸らす)
女 私の勝ちね。

  男、ナイフを投げ捨てる。
  女と男、しばらく見つめ合う。

女 あなたの問題でしょう?
男 何?
女 あなたが自分でここに来たんでしょう? 自分が誰で、ここがどこで私が誰なのか。
  それはあなた自身が…。
男 思い出せないよ。
女 思い出して。
男 いいから教えてくれ。ここがどこかだけでいい。
女 私も知らない。
男 嘘つくなよ。
女 嘘じゃないわよ。
男 知ってるんだろう? 知らない場所に突然いるなんてことはあり得ないよ。誘拐されたのでない限り。
女 もし誘拐されたのだとしたら?
男 え?
女 もし、あなたも私も誘拐されたのだとしたら?
男 そうなのか?

  短い間

女 嘘。誘拐なんてなかった。
男 ……何だよ…。
女 私はともかくあなたは誘拐されたんじゃないわ。進んでここに来たの。
男 私はともかく?
女 あなたが私を誘拐したのだとしたら?
男 え?
女 冗談。
男 (ため息)

  女、微笑む。

女 ねえ、自分でも変だと思わない?
男 変って?
女 いつもと違うとか。
男 …いや。
女 そう。
男 何が言いたい?
女 当ててみて?
男 付き合いきれない。

  女、笑う。
男 笑うなよ。

  女、応えない。
  男、諦めて立ち上がる。壁を叩き、体当たりを試みる

女 ちょっと。
男 何だよ。
女 何してるの?
男 出口がなきゃ作る。
女 無理よ。
男 ずっとこうしているわけにもいかない。
女 無理なことはわかっているでしょう。
男 何もしないよりましだ。
女 意味ないよ。あなたが出たいと思わなきゃ出られないのよ。
男 出たいと思ってるよ。それに君の言葉は矛盾してないか?
女 矛盾?
男 出たがってるからこんなことしてるんだろう。
女 嘘。
男 嘘ついてどうする?
女 出たくなんかないくせに。
男 俺は出たいよ。さっきから出たがってるだろう。
女 (冷たく)本当?
男 本当も何も…
女 出てどうするの?
男 (怒りを込めて)何?
女 自分の名前も知らないんでしょう。そんなんで出てどうするの?
男 うるさい! 文句ばっかり言ってるんじゃないよ。
女 冷静になってよ。
男 おい、お前。

  男、ナイフを持って女に近寄る。

女 何よ。
男 静かにしないとな…
女 (先手を打って)殺せるはずないでしょう。
男 うるさい!
女 誰も殺せないのよ、ここでは。
男 何言ってるんだ。怖いなら怖いって言えよ。
女 恐くない。
男 本当は知ってるんだろう? 出口はあるんだろう?
女 ない。
男 教えろ。
女 知らないから教えられない。
男 いい加減にしないと…。
女 そんなことしても無駄なのよ。あなた自身が出たいと思わなきゃ出られないの。
男 だからさっきから出たいって言ってるだろう!
女 ならどうして出口がないの?
男 それを訊いているのは俺の方だ!
女 あなた、本当は出たくないんでしょう。ここから一歩も。
男 そんなわけないだろう。
女 何にも憶えてないんじゃ、誰も相手なんかしてくれないもんね。でもここにいれば大丈夫。わたしにはあなたがいるわ。

  女、男に抱きつこうとする。

男 やめろ!

  ナイフが思わず女の腕の上を滑る。

男 ………。大丈夫か!?

  男、傷口をのぞこうとするが、そこには傷はない。

男 え?(男、女の目を見つめる)
女 だから言ったでしょう。無駄だって。
男 どういうことだ? これは一体?
女 ここでは誰も、誰をも傷つけることは出来ないの。
男 あり得ないよ。
女 でもそうなのよ。
男 何なんだここは。
女 あなたが望んで来たの。ここに。
男 ……。
女 そうなの。
男 ……。
女 そうなのよ。
男 わからない…。わからないよ。
女 わたしには何も出来ないわ。あなたが本当にここから出たいと思わない限り。
男 出たいよ! 出してくれ。
女 わたしには何も出来ないのよ。
男 そんな。

  男、あたりの壁を見渡す。

男 俺は、こんなところにいたくない。
女 どうして?
男 え?
女 ここには全てがあるわ。
男 何もないじゃないか。
女 言い方を変えるね。ここでは何もする必要がないの。食べなくてもお腹は空かないし、トイレに行く必要もない。眠りたいだけ眠っていられるし、働く必要もない。心を掻き乱すような雑音は一切ないし、狭いけれど完璧に完結してる。世界にここ以上に快適な空間はないわ。ここは完璧な世界なの。
男 俺にずっとここにいろってことなのか。
女 ……。
男 そうなのか?
女 そうよ。
男 そんなこと出来ない。
女 どうして?
男 そんなのごめんだ。快適なんて嘘だ。
女 慣れればいいものよ。
男 慣れたくなんかないよ。
女 でも他にどうしようもないわ。あなたが選んだ道ですもの。
男 選んだ覚えはないよ。
女 でもそうなの。
男 そうって…、嘘つくなよ。何でそんなことわかるんだよ。
女 わたしにはわかるの。
男 じゃ、君はどうなんだ? 君はここに望んできたのか?
女 そうじゃないわ。
男 見ろ。言ってることが違うじゃないか。
女 わたしはあなたがここに来たいと願ったからいるのよ。

   間

男 どういうこと?
女 わからない?
男 わからない。
女 本当に何もかも忘れてるのね。
男 どういうことだよ。
女 荒野の話をしましょう。
男 またそれか。もういいよ。
女 坂の上の荒野の話。あなたはそこで死んだの。
男 え?
女 死んじゃったのよ。あなた。
男 僕が?
女 そう。
男 どうして?
女 思い出せない?
男 思い出すも何も、どうして僕が死ななきゃならないんだよ。
女 自分で死を選んだのよ。
男 え?
女 自殺したの。
男 冗談はよしてくれよ。何だよそれ。
女 本当なの。
男 じゃ、今いる俺は何なんだ? この体は? 俺はこうやって生きているじゃないか。
だいたい君は誰なんだよ? さっきから一体何を言ってるんだ! ここがあの世だとでもいうのか!
女 あんまり興奮しないで、傷に障るわ。
男 傷?
女 まだふさがってないのよ。傷が。
男 !?

  男、胸に手をやる。血が徐々に白いシャツを染める。

男 これ……。
女 刺したの。あなたが。
男 嘘だろ。

  男、がっくりと膝をつく。

女 大丈夫よ。痛まないでしょう。
男 え?
女 痛い?
男 ……いや…、不思議と…。
女 血止めをしましょう。

  女、ポケットから包帯を取り出す。

女 用意しておいて良かった。脱いで。
男 え?
女 これを巻くから。
男 ああ。

  男、上着を脱ぐ。女、包帯を巻いていく。

女 さっきのナイフ、あれであなた自分の胸を刺したのよ。
男 あれで?
女 何でナイフを持ってたのか、不思議に思わなかったの?
男 ああ…、いや。
女 心配しないで、すぐにふさがるわ。
男 何でだ。
女 何?
男 どうして痛みがない?
女 言ったでしょう。ここでは誰も傷つけることが出来ないの。傷つかなければ痛みもないでしょう?
男 でも、この傷は?
女 これはここに来る前につけた傷でしょう。だから形だけは残ってるの。
男 そう。
女 ええ。
男 わかるようなわからないような。
女 わからなくていいのよ。
男 でも嘘だろう? 俺が死んでるなんて。
女 じゃ、その傷は何?
男 ……。
女 普通なら致命傷よ。いえ、普通も何も致命傷だったの。
男 信じたくない。
女 信じたくなければ信じなくてもいいわ。でも、そうなの。
男 (何かを言おうとするが、何を言っていいのかわからず首を振る)

   女、男に包帯を巻き終え、それから男の顔をじっと見つめる。

男 教えてくれないか。
女 どうぞ。
男 ここは、天国なのか? それとも地獄なのか?
女 受け入れたの?
男 いや、君の答えを聞いて判断したい。
女 そう。
男 どっちなんだ?
女 どっちでもないわ。
男 あの世なんだろ? いや、あの世って言うのも変だけど。
女 死んだ後の世界ってね。あなたが思ってるようなものじゃないのよ。
男 良くわからない。
女 わからなくて当たり前。完全に死んでから蘇った人なんていないもの。誰も死後のことを知らない。
男 ここは地獄だ。
女 え?
男 地獄だろ?
女 ちょっと失礼じゃない?
男 え?
女 私と一緒にいるのが地獄だってこと?
男 いや、そういうんじゃなくて。
女 そう言っているように聞こえた。
男 そうじゃなくてさ。
女 そう聞こえた。
男 ……。
女 変わらないのね。
男 え?
女 そういうところ。
男 君は…?
女 いいわ。「私には」そう聞こえたっていうだけだし。あなたが悪い人じゃないことは知ってるから。
男 俺が地獄だと言ったのは、ここが狭くて暗くて出口がないからで。
女 わかってる。意地悪だったかも知れない。でも狭くて暗くて出口がないからって、地獄だと結論づけるのは早計じゃない?
男 早計?
女 そう。ちょっと文語っぽかったかな。早合点って言った方がいいかな。
男 ああ、だけど…、
女 私もそうだって言わないでね。大丈夫。ちょっと意地悪起こしただけだから。
男 そう。
女 うん。

  短い間

男 でも牢獄みたいだ。
女 牢獄?
男 牢獄だ。自殺が罪だから、聖書に書かれている通り罪だからこんなところにいるのか?
女 いいえ、あなたが望んだのがこの場所なの。ここはあなた自身の場所なのよ。
男 僕自身の?
女 そうよ。
男 わからないな。どういうことだ。
女 その前に服を着て。
男 ああ? ああ、わかった。
女 (男の服についた血をふき取りながら)死ぬってどういうことだかわかる?
男 (少し考えて)心臓が止まること。脳がその働きをやめること。呼吸が止まること。
女 それだけ?
男 他に何がある。
女 肉体がなくなることでしょう。
男 そうだ。体が動かなくなる。そしてなくなる。
女 でも心は残るの。
男 え?
女 ここはあなたの心の中。つまり心象世界。
男 どういうこと?
女 死ぬっていうのはね、自分の心の中に赴くことなの。内側が外側になるの。言ってること、わかるかな?
男 じゃ、ここが俺の心の中だって言うのか。こんな出口のない狭くて暗い部屋が俺の心の世界だって言うのか。
女 そうよ。
男 冗談言うな。どうして俺の心がこんな狭い世界なんだよ。
女 わたしにもわからないけど、とにかくそうなのよ。
男 (自分に言っているのか女に言っているのか自分でも自覚せずに)ふざけるなよ。
女 でもここがあなたの望んだ世界なのよ。
男 嘘だ。誰が好きこのんでこんなところに…。
女 本当なの。
男 じゃ、君は誰だ? 君も俺の心の中の一人格なのか。実際にはいないのか。アニマとかいう…。
女 わたしのことが本当に思い出せないの?
男 本当も何も俺は何一つとして憶えていないんだよ。
女 努力して。
男 するよ。するけどさ。
女 わたしの顔を見て。

  男、女の顔を食い入るように見つめる。
  間

男 駄目だ。
女 あせることないわ。
男 済まない。
女 謝ることない。
男 でもどうしてだろう。君といると不思議と心が落ち着く。
女 さっきはナイフ突きつけたくせに?
男 いや、あれはさ、
女 何も言わないで。わかってるから。
男 ああ(としか言えない)
女 うん。

  間

男 あのさ。
女 ん?
男 荒野ってどこの荒野。
女 思い出せない?
男 …ああ。
女 そう。
男 知ってるんだろう?
女 そうね。
男 教えてくれないか。
女 具体的な場所じゃないわ。
男 え?
女 比喩としての…
男 比喩だとか何だとか、そういうのはどうでもいいからさあ、
女 あなた、そこにいたのよ。
男 俺が?
女 そう、比喩としての荒野。
男 あのさ、文学少女みたいなこと言わないでくれるか。
女 文学とかそういうものでもなく、荒野にいたの。
男 荒んだ世界ってことか?
女 世界ではなく、あなた自身の比喩。
男 俺が荒んでたって言うのか?
女 ある意味ではね。
男 言ってることが抽象的過ぎるよ。もっとはっきり言ってくれよ。
女 あなた、私を喪った時のこと憶えてる?
男 喪った?
女 そう。憶えてる?
男 喪ったも何も君は今、ここにいて…
女 私も死んでるの。
男 君も?
女 そう。
男 え? じゃあ、君は…
女 イメージの産物だとでも思ってた?
男 いや、何と言うか…、じゃ君もいたんだね。その…、あちら側に。あちら側と言うか、現世というか…、
女 そうよ。
男 じゃ知り合いなの? 君と僕とは?
女 (微笑んで)夫婦だったのよ。わたし達。
男 …そうなのか。
女 思い出せない?
男 いや。いや、何となくは。
女 無理してるでしょ。
男 え? いや…。
女 無理してる。
男 うん…。
女 わたし怒ってたのよ。わかった?
男 え?
女 あなたには生きて欲しかったのに。そう言ったのに約束を守らないで死んじゃって。
男 だから、さっきはあんな態度だったのか。
女 そうよ。
男 済まない。
女 許さない。
男 ……。
女 嘘。いいの。もう仕方ないわよ。過去のこと。
男 何やってんだ俺は。
女 考えるのはよしましょ。前向きに。いいわね。
男 前向きって、どういうこと?
女 受け入れるってこと。
男 何を?
女 状況を。
男 ああ…。
女 ずっといましょう。二人で、こうして。いいわよ、二人でずっといられるのって。実務から切り離された二人だけの時間。
男 いや、駄目だ。僕らはここを出るんだ。
女 どうして? いいじゃない。わたし達このままで。
男 こんな場所に二人でいてどうなる。どうにもならないよ。外へ出よう。もっと広い場所へ。光の射す所へ。それが前向きってことだろ?
女 出るって言っても、出ようがないわ。あなたの世界には出口がないの。どういうわけだか。
男 いやどこかに必ずあるはずだ。隠されてるだけなんだよ。僕が僕の心の中にいる。それはわかる。でも君は? 君はどこからか入ってきたんだ。そのどこかがこのどこかにあるはずだ。
女 わたしはあなたに呼ばれて来たの。意識を通じて。だから物質的な壁を通り抜けたわけじゃない。気がついたらここにいたの。あなたと同じように。
男 じゃ、この壁のどこかが開くってわけじゃないんだね。
女 そういうことになるわね。
男 通り抜けられるわけでもない。
女 ええ。
男 でも出口はあるはずだ。
女 だから無いって言ってるじゃない。
男 言い切れるのか。
女 それは……。断言は出来ないけど…。
男 とにかく探そう。
女 さっきさんざん探したじゃない。それでも見つからなかったんでしょう?
男 ここは意識の中なんだろう。ええと、意識は重層構造になっている。つまり意識と無意識。ここが僕の無意識が創り上げた空間だとしたら…、無意識はそれ自体で完結している訳じゃないから出口はあるってことになる。無意識は表層と内奥とを、ええと、対流する情報によって絶えず流動している。今は出口が無くても、情報が上方に顔を覗かせた時に…。
女 あんまり理屈っぽいこと言わないで。
男 えー、簡単に言うといつか出口が現れるということだ。
女 最初からそう言えばいいじゃない。
男 いや、過程を経ないと、意味がわからないから。
女 過程を経たって意味わかんないよ。
男 そう?
女 悪い癖。
男 え?
女 そうやって何でも分析して理屈で考えようとする癖。
男 悪いかな?
女 かもね。
男 かもね?
女 いいわ。私達はそのいつかを待てばいいのね。
男 いや、待ってばかりじゃ駄目なんだ。こちらから働きかけないと。
女 どうして?
男 「それ」は、「それ」自体は、こちらから働きかけないと止まったままだから。
女 働きかけるって、一体どうするの?
男 それは……。
女 わからないの?
男 何とかなる。
女 何とかなるって。わからないのに闇雲に動いてもしょうがないでしょ。
男 だけど…。
女 待てば黄色のマクワウリっていうじゃない。
男 待てば海路の日和ありだろ。
女 冗談よ。
男 どうしてそんなつまらない冗談言うんだよ。
女 あなたが好きだったのよ。こんな馬鹿みたいな冗談。
男 俺が?
女 そうよ。
男 嘘だろ?
女 あなたそういう人だったのよ。
男 ……思い出せない。
女 いいの。こうしていましょう。
男 ……。
女 ねえ。
男 ん?
女 心の中を覗いてみて。何が見える?
男 何も…。
女 何か一つくらい思い浮かぶことがあるでしょう。
男 わからない。形にならない。
女 本当に?
男 ああ。
女 そう。

  短い間

男 やっぱり出口を探そう。
女 どうしてそんなに外に出たがるの?
男 ここは僕らのいるべき場所じゃないんだ。
女 でもここはあなたの世界なのよ。
男 なら僕が変えてみせる。僕の世界を。

  男、壁を見渡し、見渡し、見渡す。上方に一カ所、わずかな傷のあることがわかる。
  男、その下に駆け寄り、飛び上がって、のぞこうとするが届かない。

男 ちょっと来て。
女 何なの?
男 あの傷が見える?
女 どれ?
男 あれ。
女 あの小さなやつ?
男 あそこから外が覗けないかな。
女 無理なんじゃない。
男 どうしてわかる?
女 だってあれはただの傷でしょう。
男 とにかく覗いてみよう。
女 覗くって、届かないじゃない。
男 僕が馬になるから君が覗いて。
女 私が?
男 頼むよ。
女 いいけど。
男 早く。
女 でも見ない方がいいかも知れないわよ。
男 どうして?
女 上手く説明できないけど…。
男 いいから乗って。

  男、馬になる。女、上に乗り、覗こうとするが届かない。

女 駄目、届かない。

  女、下りる。

男 駄目か。
女 ええ。
男 肩車。
女 え?
男 肩車しよう。
女 届くかしら。
男 やろう。

  今度は肩車で挑む。

男 見える?
女 ええ、何とか。
男 何がある。
女 何もないわ。
男 何も?
女 ええ。
男 何もないってどういうこと?
女 いいから下ろして。

  男、女を下ろす。

女 空白があるだけ。
男 空白って。
女 空白しかないのよ。何もない。
男 僕の心には空白しかないってことか。
女 そうなるわね。
男 そんな。じゃ俺の一生は何だったんだ。俺はそんな空白を作るために生きてきたのか。
女 わたしに当たらないで。
男 当たってる訳じゃないさ。
女 あなたは「空虚」を抱えていた。そういうことじゃないの。それがなんなのかわたしにはよくわからないけど。
男 「空虚」?
女 確かにあなたは恵まれた人生を送った訳じゃなかったわね。
男 俺は、俺は何だったんだ。何をやってた?
女 教師よ。国語の先生。
男 それのどこが恵まれてないんだ。
女 他人の世界だけ見て、自分のことは省みなかった。定年までずっと。
男 定年?
女 そう。
男 定年って何の定年?
女 仕事の定年よ。他にどんな定年があるの?
男 ちょっと待ってくれ。俺は今何歳なんだ?
女 ここには年齢なんてものはないわ。でもあの世界を旅立ったのは六十六歳の時。
男 ええ?!
女 今は違うわ。
男 よくわからない。え…、ちょっと待ってくれ。混乱する。
女 なんか私が希望した年齢にあなたも合わせたみたい。
男 希望した? 君が?
女 そう。
男 そんなことが出来るのか?
女 (無視して)仕事一筋なんて馬鹿みたい。
男 おい、ちょっと。
女 仕事仕事。文学文学。本当に仕事や文学ってありがたいのね。
男 いいじゃないか。仕事こそ男の心の拠り所だ。
女 心の底からそう思ってた? 違うんじゃないの。
男 わからないけど、仕事がないよりましだろう。
女 それがあなたの心を空虚にしてしまったのだとしても?
男 どうして空虚が生まれるんだよ。
女 あなたは多くの人のことを知っていた。ただ自分のことは何も知らなかった。だから心が満たされなかったんじゃないかしら。仕事のことばかり考えて、自分自身には目を向けなかった。友達もほとんどいなかったし、わたしのこともあまり構ってくれなかったから。
男 そうなのか。
女 そうよ。
男 ……。
女 とにかくここは平穏だわ。あなたは平穏さを求めていた。だからここはこういう場所なの。無理に出ようとしなくてもいいじゃない。
男 いや、駄目だ。ここは完璧な世界だと君は言った。でも完璧なんて窮屈なだけだ。こんなところにいたいとは、僕は思わないよ。
女 でも、どうするの。出ようにも出る場所も行くところもないのよ。
男 必ずあるはずだ。何かきっかけがありさえすれば、出口は必ず開ける。本当に行くべき場所も見つかる。
女 なら、記憶よ。とにかく記憶を取り戻さないと。どう? 何か思い出さない? 思い出して。
男 ちょっと待って。
女 うん。

  間

男 光が見える。
女 光?
男 ああ、強くて、激しい光。目を貫くような。そしてひどく寒い。足が凍り付くほどに。
女 それはいつの記憶なの?
男 ……わからない。
女 そう……。

  黒いスニーカーが一足、天井から落ちてくる。

男 え?
女 何?
男 これ…。
女 靴?
男 そう。
女 ちょっと待って、どうして靴が落ちてくるの?
男 誰かいる。
女 本当に?
男 おーい、誰かいるんですかー?

  返事はない。

男 誰かいる。それは間違いない。
女 ってことは。
男 出口はある。外には人がいる。
女 出られるのね。
男 ああ。
女 (上を見て)何もないように見えるけど。
男 どこかに隠し扉のようなものがあるんだよ。その上には人がいる。僕らがここにいるってことに気づいて貰えれば、ここから抜け出せるかも知れない。
女 でも…。
男 何?
女 外がここより良いという保証はどこにもないのよ。
男 良いに決まっている。こんな狭苦しい場所より、広い外の世界の方がいいに決まってるよ。
女 でもここを選んだのはあなた自身でしょう?
男 え?
女 記憶をなくす前のあなたが選んだんでしょう?
男 違うよ。
女 そうなの。
男 違うって。
女 思い出して。
男 何を?
女 どうしてこんなところに来たかったの?
男 いいじゃないか、そんなこと。
女 あなたは平穏を求めていた。そしてそれにはわたしが必要だった。だからわたしがここに呼ばれた。そうじゃない?
男 もういいよ、どうだって。
女 よくないの!
男 ………。
女 こうしていましょう。二人で。抱いて欲しいなら抱いてあげる。もう怒ってないわ。あなたが勝手に死んでしまったことも。
男 俺は出たいよ。
女 いましょう、ここに。
男 (上に向かって)おーい。
女 どうしても出たいの?
男 (無視して)誰かいるんでしょう? 返事をして下さい。ねえ。下にいます。聞こえませんかー?
女 ねえ、ちょっと。
男 何?
女 この靴、あなたのなんじゃないの?
男 え?
女 わたし見覚えあるもの。この靴。
男 靴なんてどれも一緒なんじゃないか?
女 ねえ、見憶えない?
男 (ろくに見もせずに)わからないよ。(上に)おーい。
女 そうよ。あなたのよ。履いてみて。
男 え?
女 履いてみてよ。
男 何で?
女 確かめるの。
男 そんなことしなくったって…
女 いいから!
男 ……ああ。

  男、靴を履く。

女 どう?
男 ぴったりだ。
女 あなたのね、
男 いや、サイズなんてどれも大して変わらないし。
女 あなたのでしょ?
男 そうかも知れない。でもどうして俺の靴が上から落ちてくるんだよ。
女 ここはあなたの世界なのよ。
男 え。
女 「足が凍り付くほど寒い」、そう言ったよね。
男 ああ、いや、でもさ…、
女 だからよ。
男 いや、そんな単純にものごとが、
女 あなた単純でしょう?
男 うん。いや、そんなはっきり言わなくても。
女 ちょっと待って。
男 何?
女 つまり…、
男 つまり?
女 ……。
男 つまり何だよ?
女 あなたはここから出られない。
男 え? ちょっと待ってよ。どうしてそういうことになるんだよ?
女 あなたの記憶にこの靴が感応したの。だからここに靴が落ちてきたの。
男 感応って…
女 ここはあなたの世界だもの。あなたが作った世界だもの。
男 それはさ…
女 自分で言ったでしょ? 意識の世界なの。だから現れるものは意識の産物。
男 理屈としてはわかるけど…、
女 考えてみて? どうして出口がないの?
男 え?
女 こういうことよ。あなたの記憶や意識は出口とは繋がっていないの。
男 そんなこと…、そんなことはないだろう。
女 何でも起きるのよ。意識に感応したら何でも起こる。こうして靴が落ちてくる。
男 …よくわからないよ。
女 本当に出たいなら出口なんてすぐ見つかるし、現れるはずでしょ?
男 出たいよ。出たいに決まってるじゃないか。
女 あなたは心の底では出たいなんてこれっぽっちも思っていないのよ。
男 俺は出たいんだよ。
女 嘘。
男 嘘じゃない。

  短い間

女 ここにいましょう。あなただってそう望んでいるはずだもの。
男 何を言ってるんだ君は。
女 これはあなたの部屋、あなた自身が築いた壁なの。壊せるはずないじゃない。
男 簡単だ。自分が作ったものなら自分で壊せる。
女 あなたは気づいてないのよ。自分が築いたものに気づいてないの。
男 なんだ洒落か、それならもう…。
女 (遮って)壁を壊すことなんて出来ないのよ。
男 ………どういうこと?
女 これはあなたが自分を守るために築いた壁なの。壊したらあなたはあなたでなくなる。
男 え。
女 悪いことは言わない。このままこうしていましょう。別に不自由はしないわ。ここは完璧な世界なんだから。
男 だけど。
女 あなたが築いた完璧な世界。
男 完璧?
女 そう。ただ座っているだけで、横になっているだけで幸せになれる。外の世界なんて気にしなくていいの。
男 嫌だ。そんなの嫌だよ。
女 子供みたいなこと言わないで。
男 子供みたいって、君のいう世界の方が子供じみてる。
女 あなたの世界なのよ?
男 嘘だ。
女 よく考えてみて。私が嘘をつく必要なんてある?
男 俺は出たいんだよ。出たいよ。出たいに決まってるだろう。
女 どうしてそんなに出たがるの?

  男は答えられない。
  やがて、男は壁際に行き、壁を何度か叩く。最初は強く、最後は弱く。

女 落ち着いて。
男 ……。
女 (前よりも柔らかく)落ち着いて。
男 ……ああ。
女 こっちへ来て。一緒に座ろう。さあ。
  
  男、どうしていいかわからず佇む。

女 (強い調子で)さあ。

  男、女の横に腰掛ける。

女 このまま時が過ぎるのを待ちましょう。何も考えなくて良いの。頭を悩ませることは何一つない。
男 だけど。
女 何?
男 ずっとこのままなのか?
女 このままって?
男 こんな牢獄みたいな…。
女 そういう考え方はやめて。そういうのって良くないと思う。
男 そうかな。
女 多分。

  短い間

男 なあ。
女 ん?
男 どうしたんだろう。ひどく眠たい。目の前が真っ白になる。
女 (男の頭を抱いて)眠って。気が晴れるまで。それからのことは、その時になって考えればいい。何も心配することない。私もずっとここにいるし。
男 ああ。
女 おやすみなさい。
男 おやすみ。
女 (歌う)ねむれねむれ 母の胸に ねむれねむれ 母の手に
  こころよき 歌声に むすばずや 楽しゆめ
  ねむれねむれ 母の胸に
  ねむれねむれ 母の手に
  あたたかき その袖に
  つつまれて ねむれよや

  男、眠りに落ちる。
  女、それを見届け、男の頭をなでて、横に寝かせる。自分が嵌めていて指輪を外し、男の指に嵌める。
  女、本を拾い、ページを開く。
  本を読みながら、時折、男の方へ目をやる女。やがて鼻歌を歌い始める。

女 (フォーレの「レクイエム」より「ピエ・イエス」を鼻歌で歌う)
男 ○○○(「女」役の俳優の名前を呼ぶ)。
女 え?
男 ○○○。
女 思い出したの? わたしの名前を。
男 ああ。思い出したよ。君は○○○だ。
女 そう、それがわたしの名前。
男 待たせたね。
女 うん。
男 ただいま。
女 おかえりなさい。
男 (自分の手の指輪を見て)これ?
女 いいの。してて。
男 ああ。これ、君の?
女 そう。そしてあなたの。
男 僕?
女 あなたが買ってくれたの。私に。
男 そう……。なぜ僕がここから出られないのか。わかったような気がする。
女 え?
男 (起きあがろうとして)頭が痛いな。
女 大丈夫?
男 ああ。それよりわかった気がするんだ。何故なのかが。
女 いいのよ。別にそんなこと考えないで。
男 僕は君を愛してなかった。本当は。
女 え?
男 愛してなかったんだ。
女 そんな…、そんなこと(ない)…、
男 君も僕の愛を感じてなかった。そうだろう。
女 なに馬鹿なこと言ってるの。後追い自殺までしたんでしょう。あなたがわたしを愛してくれてないわけないじゃない。
男 いや。本当は愛してなかったんだ。
女 失礼だと思わない? 思うんならもう止めて。
男 俺には愛なんてわからなかった。だからこんなところに来てしまった。違うか?
女 違う。ここはいいところよ。そうでしょ?
男 いいや。ずっとここにいるべきじゃない。こんなところにいちゃいけないんだ。こんなところがあってもいけない。間違ってるよ。
女 そんなことない。私はあなたといて、あなたは私といて、それで…、私は、そう、ここで、こうして、そう、だから…、
男 気づいてるだろう?
女 え?
男 本当のことに?
女 本当? 本当って何? 本当って簡単に言うけど…
男 もういいよ。
女 ……。
男 わかってるから。
女 そう。
男 うん。

   短い間

女 そうね。本音を言うと、わたしもあなたがもう少し人間味のある人だと嬉しかったんだけど。でもそれがつまり…、上手く言葉に出来ないけど、愛を感じるとか感じないとかそういうことに直接つながるわけでもないし、だから、ええと…。
男 寂しかった。誰かに頼りたかった。君に支えて貰った、その支えを失った。そしてここに来た。報いだよ。ここが、こんなところが俺の世界。狭く、暗い。
女 報いだとか、そんなこと考えちゃ駄目。そんなものがあるのかどうかもわからないんだし。
男 でも、僕にはそう思えてならない。
女 考えるのは止しましょう。ねえ、止そうよ。こんなこと喋ってても気が重くなるだけ。
  本当だとか、真実だとか、そんなものはもう何の役にも立たないんだし。あるだけ。こういう状況があるだけ。そして私達もそこにいるだけ。あるだけ。
男 ずっとここにこうしているしかないのか。
女 それしかないと思う。他に方法がないもの。
男 そっちに行っていいかな?
女 来て。

  男、女のすぐ横に座る。
  男は正面を見つめる。女は男の横顔を見つめ、やがて視線を落とす。
  しばらくして、男は女の手を取る。二人、手を握ったまま視線は動かさない。

男 どうだろう。
女 何?
男 もっとよく知りたい。君を。そうすれば出口は見つかる。
女 ……。
男 そう思わないか?
女 でもどうするの。あなた、わたしを愛してなかったって言ったよね。そんな人が急に答えを見つけられると思うの?
男 それはわからないけど。
女 寝たりキスしたり、そんなことじゃ駄目なのよ。
男 わかってるよ。
女 本当に?
男 君を抱きしめてみたいんだけど。
女 え?
男 いいかな。
女 うん。全然構わないわ。だってわたし達、夫婦だったんだもの。
男 そうだな。

  男と女、抱き合う。

女 どう? 何か感じる?
男 ああ、温かい。柔らかい。良い匂いだ。
女 そう。
男 心地いいよ。
女 ありがとう。
男 何となく君と結婚して。君が亡くなって。何となくあとを追って。それで…、よくわからない。よく思い出せない。
女 無理に思い出さなくていいわ。
男 ああ。

  女、男の髪をなでる。

男 愛なんてよくわからない。
女 そんな簡単にわかるもんじゃないわ。みんな一生かけてその答えを見つけようとするけれど、それでも見つからない人の方が多いと思う。
男 みんな死んだらこんな狭い部屋に閉じこめられるのかな。
女 それはわからないけど。
男 君の場合はどうだったの? 前にいたのはどんな場所?
女 街よ。
男 街?
女 ええ、大きな川のある、石造りのとても奇麗な街、でも奇麗すぎて不気味なの。しかも人の姿はない。誰もいなくて孤独で。でもここにはあなたがいるわ。わたし狭いけど、あなたといられるここの方が好き。
男 僕も君がいて良かった。
女 ええ。
男 でも。
女 何?
男 やはりここからは出たいな。
女 今すぐじゃなくてもいいでしょう。しばらくはこうしていましょう。
男 ああ。

  女、男の額に自分の額をつける。

女 何か感じる?
男 予感かな。
女 予感?
男 何かを思い出せそうな予感。
女 そう。
男 君は?
女 え?
男 君のことを知りたいんだ。思い出せないことも、まだ知らないことも含めて全部。
女 そのうちに話してあげるわ。
男 僕のこと、どう思ってた。
女 どう思ってたって?
男 好きだった?
女 好きよ。当たり前でしょ。ちょっと冷たい人だったけど頼りになったし。もうちょっと構って欲しかったっていうのが本音だけど。
男 わかった。もっと君と接してみるよ。受け入れるよう努力してみる。
女 そうして。
男 ああ。
女 何か見える?
男 海。
女 海?
男 そう誰もいない海。潮騒が聞こえる。
女 そう。それはいつの記憶なの。
男 わからない。これが僕の記憶なのかどうかも定かじゃない。
女 想像かも知れないってこと? 心象風景だとか。
男 あるいは。もしくは別の人の記憶だとか。
男 別の人?
男 海のことを考えて。
女 わたしが?
男 そう。
女 どうして。
男 いいから。何が見える?

  間。

女 波。遠くの岬と島。なだらかな水平線。ゆるやかに舞うカモメ。
男 浜まで迫る山。どこまでも続く轍。
女 そう。そうね。
男 爪痕のような三日月。指でなぞったような風紋。汀を駆ける千鳥。砂で出来た城。
女 うん。目に見えるよう。
男 いつか一緒に見たのかな?
女 かもね。

  短い間

男 つま先を洗う波。遠くを駆ける犬。
女 うん。
男 鎌倉だね。
女 ……思い出したの?
男 読んだんだ。君の記憶を。
女 嘘でしょ?
男 本当だよ。
女 本当に本当?
男 あるいはね。
女 あるいは? 嘘なの?
男 そんなのどうだっていいじゃないか。本当も嘘も今の僕らにとって重要か?
女 嘘は嘘、本当は本当でしょ?
男 そうかな?
女 ……
男 もう少し読んでいいかな。
女 え?
男 君の記憶を。
女 ……うん…。いいわ。構わない。
  そうして額をくっつけあい、時間が過ぎてゆく。以下に続く額を合わせながらの会話は 二人の内的対話であり、観客にはっきり聞こえなくても、また意味が伝わらなくても構わない。

男 待たせたね。
女 いいえ。
男 ここがそう?
女 いいえ、これは別の場所。左の道を採って。
男 思い出さない?
女 え?
男 菩提樹の下で語った言葉。
女 幸せについて?
男 そうだったかな?
女 違う?
男 不幸についてじゃなかったかな?
女 どうして二人で不幸について話さなくちゃいけないの?
男 光と影だから。
女 一対のものとしての?
男 僕は葉っぱの裏側に文を綴り、川へと投げ入れた。
女 その川ってどこ? 私の掌の間違いじゃない?
男 掌と川を間違えるか?
女 流れが刻まれているという共通点はあるでしょう?
男 掌を読む人がいるように?
女 あなたは心を読む?
男 多分。
女 間違っていたとしても?
男 間違いかどうかなんて本当にわかるんだろうか?
女 とにかくあなたは言葉を投げ入れた。私の掌の川の中に。
男 読んでみて、心の声に出して。
女 ええ。
男 「(注・上演の際は、ある本のあるページを引用する)」
女 (額を離し、男を見つめる)
男 どう?
女 本当に読んだの? 私の記憶を?
男 ああ。合ってる?
女 正解。一字一句間違うことなく。
男 良かった。
女 読んだんじゃないにしても凄い記憶力ね。

  背後の壁に隙間が開き、強烈な光が差し込む。
  二人、しばらくの間、何が起こったのかわからない。

男 出口?
女 ……そうね。
男 どうして急に?
女 よくわからないけど。
男 不思議だ。出口なんていらないと思ったら、こうして壁が開いた。
女 よかったわね。
男 え?
女 これで外に出られる。
男 ああ、でも…。
女 どうしたの?
男 なんだか急に怖くなった。本当に外に出ていいのか。
女 え?
男 罠かも知れない。
女 それでもいいじゃない。罠でもいいじゃない。
男 …。
女 大丈夫。外がここよりいい場所だという保証はないけど。わたしが一緒だから。
男 心強いよ。
女 もっとしっかり。
男 わかった。

  二人、立ち上がる。

男 でもいいのか。
女 何が?
男 ここにいたいんだろう? 君は。
女 あなたが出たいって言うんだったらわたしはそれに従うだけ。でもこれだけは言っておく。外はここよりは危険だと思う。それでも平気?
男 ああ。
女 本当?
男 君が一緒に行ってくれるから。
女 嬉しい。そう言ってくれて。
男 行こうか。
女 ええ。

  二人、出口へと向かう。
  と、男、急に足を止める。

女 どうしたの?
男 思い出したんだ。
女 え?
男 君が最後に言った言葉。
女 本当?
男 「わたしのこと百年先まで憶えてて」って。
女 そんなこと言ったかしら?
男 言ったよ。「百年先は僕ももういないよ」って思ったの憶えてるから。
女 そう。何か照れくさいこと言ったのね。
男 約束は果たせなかったけど。
女 いいの。またこうして会えたんだもの。
男 百年先まで一緒にいようか。
女 また、そんなこと言っちゃって。

  二人、笑う。
  そして、ためらいがちにゆっくり外へと向かう。
  光が強さを徐々に増していく。それが頂点に達したところで突如として光は力を失う。
  後には闇と誰もいない空間だけが残される。


  
                   2003年冬 初稿完成
                   2006年10月第2稿完成
                        いずれも京都にて


 
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