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賽の公園
作 ソウケンモウ
 



夕方5時の夕焼け小焼けのチャイムが鳴り響く。舞台は公園。公園にはブランコとベンチと小さな地蔵。一人の老人がやってきて、ベンチに座る。探偵のように何かを推理しているような口調で喋りだす。

「今日も外に出てしまった。どうしてこうも外に出たくなるのだろうか。結局家に帰るなら、ずっと家にいればいいはずなのに。特に用事もないのに、なぜか外に出たくなってしまう。家の中が窮屈に感じて、外に出てしまうのだ。どうして窮屈に感じるのだろうか。たしかに6畳一間のボロアパートで、狭いのは確かなんだが、一人で暮らすには十分だし、掃除の手間も省けるので気に入っている。この窮屈な感じは空間的なものではない。部屋の中の雰囲気、空気が重くて、それが窮屈に感じてしまうのだ。そういうときはまず、換気扇を回して、部屋の空気を入れ替えると、幾分かマシになるのだが、なんせボロアパートの換気扇だからどこかに隙間があって、そこから小さい虫が入ってきてしまう。狭い部屋に虫がたくさん入るとたまったもんじゃないので、換気扇をまわす時間にも限界がある。換気扇をまわしてもなかなか空気が軽くならないときは、仕方なく外に出るわけだが、結局毎日外に出てしまう。だいたい夕方になると我慢の限界が来て、こうやって公園に来るわけだ。それにしても、どうしてこうも部屋の空気は重くなるのか。」

カーカーと遠くの方でカラスの鳴き声が聞こえる

「俺は東京に生まれてからずっと東京で暮らしてきた。昔から夕方5時になると、近所では夕焼け小焼けのチャイムが鳴る。このチャイムはどこから流れているのだろうか。どこかの学校か。それとも役所か。消防署か。夕焼け小焼けを聞いていると家に帰りたくなるのが普通なんだが、俺は外に出てしまう。昔から日の出ている時間帯が苦手だった。いつも出かけるのは夕方から夜にかけてだった。夜になるとお風呂に入って身だしなみを整えて、新宿へ行ったものだ。俺は東京の街の中でも新宿が一番好きだった。新宿はちょうどいい。老若男女、オタクからオカマまで、たくさんの個性を受け入れてくれる懐の広い街だから、こんな俺でも居心地がよかった。若い頃は、東京に翻弄されていたものだ。東京生まれのくせに、心は誰よりも田舎者だった。東京生まれのくせに、幼いの頃から見てきた景色のはずなのに、誰よりも東京の華やかさに圧倒されていた。中学生ではじめて歌舞伎町へ行った時のことは今でも鮮明に覚えている。毎日朝まで新宿を彷徨っていた。この公園からは都庁が見える。新宿も渋谷も、ここから30分も歩けばいける距離なんだが、到底行こうとは思えない。年をとればとるほど、東京の街の空気を重く感じるようになってくる。今の俺が新宿に行ったところで、こんな老いぼれには何にもならない。何かが変わることもなければ、何かが起こるわけでもない。空気が重たすぎて耐えられない。もちろん田舎に引っ越そうと思ったこともあったが、それはできなかった。東京はふる里っぽさがないけれど、俺のふる里であることに違いない。どれだけ空気が重かろうと、俺は東京に居続けようと思ってるんだ。」

カーカーと遠くの方でカラスの鳴き声が聞こえる

「部屋の空気を重く感じたときは音楽を聞いてごまかそうとした時があった。ボロアパートだからイヤホンをつけて聞かないと騒音トラブルに発展しかねない。音楽はもともと好きだったから、毎日何時間も聞いていた。音楽を聞いていると、幾分空気の重みも薄れていった。でも、イヤホンを外した途端に部屋の中の空気が音楽を聞く前よりも重く感じられて、それ以来イヤホンを外せなくなってしまった。音楽を聞いた分、音楽の流れていない状態、静寂に敏感になってしまうのだ。音楽を聞いた後の部屋はいつにもまして静寂が漂っていた。どうもこの静寂と部屋の空気の重さは関連性があるらしい。外に出ても、街のざわざわでさえ静かに感じるようになってしまって、何かしらの音楽を聞いていないと落ち着かないようになってしまった。これは逆効果だと思って、イヤホンをハサミで切って捨ててしまった。しばらくは静寂に慣れるまで大変だった。静寂の流れる空気はとても重い。今でも時々音楽を聞きたくなる。でも一度音楽を聞き出すと、ずっと聞いていないとダメになってしまう。音楽なんて聞くもんじゃない。静寂に耐えられなくなる。余計に空気の重さに敏感になってしまう。同じ理由で、テレビもラジオも捨ててしまった。そういえばどれだけの沈黙が続くと、放送事故になるんだろうか。テレビとラジオは、絶え間なく静寂を埋めることが役割なんだろう。音楽もテレビもラジオも、静寂を埋めるために生み出されたものに違いない。人間は静寂が嫌いなのか。必死で静寂を埋めようとしてきたのか。どうして静寂が嫌いなんだろうか。俺と同じように空気の重さを感じている人が多いのだろうか。それにしても、どうしてこうも部屋の空気は重くなるのだろうか。」

カーカーと遠くの方でカラスの鳴き声が聞こえる

「俺の家には電話がない。もちろん携帯電話も持っていない。他人と連絡をとりあう手段はすべて捨ててしまった。だから家族や友達と連絡をとりあうことはできない。そもそも、家族も友達もいない。家庭も友達も作らずに生きてきた。部屋の空気を重く感じたときに、外に出て誰かと交流しようとしていた時があった。友達や恋人と過ごしている間は、幾分空気の重さも薄れたからだ。でも、友達と遊んだ後に一人で帰ってきた部屋の中、友達や恋人が部屋に来て、彼らが帰ったあとの部屋の中の空気が、誰かと交流する前よりも重く感じられて、耐えられなくなってしまった。誰かと交流した分、一人であることを強く感じてしまうのだ。どうも一人であることと部屋の空気の重さは関連性があるらしい。これは逆効果だと思って、今まで付き合いのあった人たちとは連絡を絶ち、電話を捨てた。それ以降は友達も恋人も作らなかった。突然音信不通になったことで、恋人は俺に振られたと勘違いしたに違いない。もちろん振ったわけじゃない。好きすぎるくらい好きだった。いつも一緒にいたかった。でも、もし彼女と別れることになったら、離れ離れになってしまったらと考えると、途端に空気を重く感じてしまう。だから連絡を断ったわけだ。どれもこれも空気の重さが原因だった。本当に申し訳ないことしたと思っている。無駄な時間を過ごさせてしまったことを心から詫びたい。他人と交流なんてするもんじゃない。一人に耐えられなくなる。余計に空気の重さに敏感になってしまう。それにしても、この空気の重さは一体何なのだろうか。」

カーカーと遠くの方でカラスの鳴き声が聞こえる

「そんなこんなで部屋の空気の重さに耐えられなくなったら外に出てしまうわけだが、外に出たみたところで、俺の行く宛はどこにもない。そこで仕方がなくこの公園に来てしまう。街中の喫茶店は俺みたいな小汚い老人には洒落過ぎていて、ちっともひと休みすることなんかできない。高いお金を払ってスナックのママなんかとくだらないおままごとをして満足するほど子供でもない。今の俺には公園しかひと休みできる場所はないのだ。家以外の場所で、外の世界で気兼ねなく座れる椅子は、この公園のベンチしかないのだ。ずっと立ち仕事をしてきたせいか、俺は座ることにたいしてものすごく執着心がある。立っていることが何よりも嫌いなのだ。歩くことも好きではない。ずっと座っているか、横になっていたい。そんな俺の唯一のひと休みできる場所。唯一座ることのできる椅子。唯一の行く宛。それがこの公園なのだ。」

カーカーと遠くの方でカラスの鳴き声が聞こえる

「でも、公園に来たら来たで、しばらくすると今度は家に帰りたくなってくる。今度は公園の空気を重く感じてしまうのだ。これは非常にやっかいな問題なのだ。家に帰れば、もう眠る時間になっていて、布団にこもって寝てしまう。睡眠というのは素晴らしい。何時間でも寝ていたい。俺は一日最低でも10時間は寝る。睡眠時間の平均は7時間なんて聞いたことがあるが、7時間程度では疲れなんてとれたもんじゃない。空気の重さに対する疲れは半端なものではないのだ。どっと疲れが湧いて、睡魔に襲われる。10時間ほど爆睡して、朝になって目が覚めると、空気の重さは幾分薄れている。しかし、時間が経つにつれて部屋の中の空気は重みを増していく。耐えに耐えて耐え切れなくなって外に出て、公園のベンチに座ってしばらく外の景色を眺めてみる。幾分空気の重みは薄まるが、部屋の時と同じように、時間が経つに連れて公園の中の空気は重みを増していく。耐えに耐えて耐え切れなくなって家に帰って、どっと疲れて寝りこける。これの繰り返しが俺の日常なのだ。部屋の空気も重たければ、公園の空気も重たい。俺の行くところ行くところ、空気は重くなっていく。さらに最近気付いたのだが、どうも空気の重みは、俺が年をとればとるほど増しているのだ。若い頃よりも年老いた今の俺の方が空気の重みに敏感になっているのだ。これは一体どういうことなんだろうか。これは俺だけに引き起こされた症状なのだろうか。いや、そんなはずはない。」

一羽のカラスがやってきて地蔵の頭に止まる。

「この空気の重みは静寂と関連している。人は静寂であるとき、空気の重さを感じる。だから音楽やテレビやラジオが生み出されて広まったのだ。人は一人であるとき、空気の重さを感じる。だから街にはたくさんの交流の場が生み出され、今でも人で溢れ返っているのだ。空気の重さを感じているのは俺だけではない。空気の重みというのは人間ならば誰でも感じるものなのだ。しかし、大きな疑問がひとつある。この空気の重みを感じていることは万人共通なのだが、空気の重さを感じる時間と場所はどうも共通ではないということだ。今俺はまさに空気の重さを感じ始めているのだが、あそこにいる子どもたちはこんな時間まで楽しそうに遊んでいる。空気が重い時、あのように遊ぶことなんて到底できない。つまり、あの子どもたちは空気の重さを感じていないはずなのだ。公園の空気が重くなっていることに違いはないのだが、彼らはまだ子供だから気付かないだけなのだろうか。でも、あそこにいる俺と同じくらいの年代の老人たちは楽しそうにこんな時間まで井戸端会議をしている。一人じゃないから空気の重みに鈍感になっているのだろうか。同じ空間にいるのに、空気の重さを感じている人間と、そうでない人間がいる。空気というのは一定のはずだ。なのにどういうことなんだろうか。うう、なんか、楽しそうな人たちを見ていたら、ますます空気が重たくなってきた。苦しい。」

老人は苦しそうに胸を抑えながら、地蔵の上にいるカラスに話しかける。

「おい、教えてくれないか。これは一体どういうことなんだ。」
カーカー
「この空気の重みは俺だけが感じているのか。」
カーカー
「そんなバカなことあるわけないだろう。空気は一定のはずだ。」
カーカー
「空気が重くなっているわけではないのか。これは空気の重みではないのか。」
カーカー
「なら、何が重くなっているんだ。教えてくれ。」
カーカー
「苦しい。俺の胸が重みで抑えつけられていく。」
カーカー
「もしや、これは俺の胸が重くなっているのか。」
カーカー
「胸が重くなるってどういうことなんだ。どうして胸が重くなる。」
カーカー
「俺の気持ちの問題か。心の問題か。俺の心が重くなって、胸を押しつぶしているのか。」
カーカー
「ならこの心の重みは一体なんなんだ。」
カーカー
「静寂を感じると心が重くなる。」
カーカー
「一人であることを感じると心が重くなる。」
カーカー
「楽しそうな人たちを見ていると心が重くなる。」
カーカー
「一人じゃない人たちを見ていると心が重くなる。」
カーカー
「そうか、俺は寂しいのか。俺は寂しさを感じていたのか。今まで感じていた重みは、空気の重みではなくて、寂しさだったのか。寂しくて心が押しつぶされていたのか。」
カーカー
「俺を長年悩ましてきた重みの正体がようやくわかった。それは寂しさだったのか。それならすべてのことが説明できる。俺が外に出たくなるのは、部屋の中の静寂とひとりでいることの寂しさに耐えられなくなって、外の音を聞きたいがため、外にいる他人と出会いたいがためだった。公園にやってきて、しばらくベンチに座って外の音に耳をすまして静寂を埋めて、公園にいる他人を眺めて孤独を埋めて、そうやって寂しさをなくそうとしていたわけだ。でも、次第に夜になるにつれて、外も静かになり、公園にも人がいなくなる。公園でも静寂と孤独を感じ始めて、寂しくなって家に帰る。人間は静寂を感じたとき、一人を感じたとき、寂しさを感じる。寂しさを紛らわすために音楽やテレビやラジオを流す。他人との交流を深める。寂しさを感じる時間と場所は人それぞれ。俺が寂しいからといってみんなが寂しいわけではない。楽しそうな人を見て心が重くなったのは自分だけが公園の中で寂しさを感じているということに孤独を感じたからだ。」
カーカー
「俺は寂しい人間だ。俺は誰よりも寂しさを感じる人間なのかもしれない。誰よりも寂しがり屋なのかもしれない。前から不思議だったのだ。なぜ自分以外の人間は、音楽を聞いた後の静寂に耐えられるのだろう。なぜ自分以外の人間は、他人と交流したあとのひとりの時間に耐えられるのだろうかと。みんな音楽を聞き続けているし、テレビやラジオも流し続けているし、街に出て他人との交流を深め続けている。どうしてそんなことができるのだろうかと。俺はとてもできなかった。音楽から逃げざるをえなかった。他人を避けざるをえなかった。そうでもしないと静寂と孤独に耐えることなどできなかった。こういう生き方しか俺にはできなかったのだ。寂しい人生だと思われるかもしれない。でも、寂しさに慣れるためには寂しく生きるしか方法はないのだ。寂しがり屋は寂しく生きるしかないのだ。そうやって今までなんとか生きてこれたのだ。」

突然カラスが不気味に何度も鳴き出す。

「ずいぶんと不気味に鳴くものだ。そういえばカラスが不気味に鳴くと誰かが死ぬという噂を聞いたことがある。まさか、自分が死ぬんじゃないだろうな。もう歳も歳だから、いつ死んでもおかしくはないんだが、はたしてこのまま死んだら俺はどうなる。俺はちゃんと成仏できるのか。あの世に行くことができるのか。寂しく生きてきた自分の人生に、後悔や未練はない。こうするしかなかったという自負がある。仕方がなかったと自分の中で納得ができている。でも、一抹の不安は、俺はまだ寂しいということだ。寂しさに慣れるために寂しく生きてきた。たしかにある程度は静寂に慣れ、孤独に慣れた。寂しさに鈍感になったかもしれない。しかし、だからといって寂しさが消えたわけではない。それでも寂しいものは寂しいのだ。激しい寂しさが時折俺を襲って、俺の心を押しつぶそうとすることがあるわけだ。もし、あの世というものが空高い天の向こうにあるとしたら、この寂しさという心の重みがある限り、あの世に行くことができないのではないか。これはあくまで俺の独断の偏見以外のなにものでもないのだが、そんな感覚がするのだ。俺はこのままではあの世に行けない。あの世に行くには心が重すぎる。そんな感覚がするのだ。」

風が吹いて公園のブランコがギーコギーコと揺れ始める。

「あの世に行けなかったらどうなるのだろうか。延々とこの世を彷徨うことになるのだろうか。心霊写真にうつりこんだり怪談話に登場したりするような幽霊になってしまうのだろうか。この世で悪事を働いたら成仏ができないという話は聞いたことがある。この世に未練を残したことで成仏できないという話も聞いたことがある。でも俺は何も悪事を働いていないし未練もないと自負している。ただ、寂しいだけだ。他の人間よりも寂しいだけ。それだけで、成仏させてくれないのか。寂しさを残したことで成仏できない人間。死んだ後も寂しさを抱えてこの世を彷徨いつづける。なんてひどい話だろうか。」

ギーコギーコ

「仮に成仏できなかった場合でも、親族が供養をすることで成仏できるという話を聞いたことがある。しかし、俺には親族がいない。友達もいない。墓もない。俺を供養してくれる人はこの世に存在しない。つまりは無縁仏だ。ひとりで孤独死して、寂しさを残したあまり成仏できずにこの世を彷徨う無縁仏。供養してもらえないから永久にこの世を彷徨いつづける。それが俺の行く末なのだろうか。寂しい人生を過ごしてきた俺の末路なのだろうか。この世を彷徨うとしても、もちろん行く宛なんてない。生きている今でさえ行く宛がないのに、死んでしまったら余計に行く宛などないだろう。死んでしまったら自分の家でさえ行くことができなくなるのだろうか。となると、行く宛はやっぱり。」

ギーコギーコ

「誰も座っていないあのブランコには、見えない誰かが座っているのだろうか。成仏できずにこの世をさまよい続ける何者かが、この公園には溢れているのだろうか。いや、きっとそうにちがいない。死んだ俺の行く宛は公園しかない。この世に取り残された無縁仏の行く宛は公園しかない。お寺はどうも信用ならない。生きている人間が行ったところでどうにもならない場所に、死んだ人間が行ってもどうにもなるはずがない。お寺のどこで休めばいいのだ。お寺のどこに気軽に一休みできるベンチがあるんだ。坊さんは金を払わないと何もしてはくれない。死んだ人間にお金なんてあるわけがない。今生きている俺がひと休みできる場所は公園しかないんだから、気兼ねなく座れる椅子はこのベンチしかないんだから、死んだ俺が休める場所も公園しかない。だから間違いなく死んだ俺も公園に行くしかない。俺と全く同じ境遇の人間が死んだら、公園に行くしかないのだ。公園は見えない何者かで溢れかえっている。誰も座っていないあのブランコには見えない誰かが座っている。」

ギーコギーコ

「死んだらてっきり楽になれると思っていたのに。死んだら極楽とまでは言わないけれど、寂しさを感じない安定した場所に行けると思っていたのに。だから早く死んでしまいたいなんて思ったりもしていたのに、えたいのしれない強迫観念から、死ぬのが怖くなってしまった。俺はいつまで寂しさに苦しまされるのだろうか。死んでも何も変わらない。死んでも寂しさを抱えながら、心を押しつぶされながらひとりで公園を彷徨うのか。それは、何としても、何としても避けたいことだ。いくらなんでもつらすぎるだろう。独断と偏見なのはわかっている。死んだらどうなるかなんてわかりっこない。もしかしたらすんなり成仏できるのかもしれない。でも、とりあえず今言えることは、今のままではいけないということだ。何かをしなければならない。それは確かなんだ。」

ギーコギーコ

「俺は何をすればいいんだろうか。どうすればちゃんと死ぬことができるんだろうか。もう寂しいのにはうんざりしているんだ。一人ぼっちでなんでも好き勝手に自分の自由に気楽に生きてきたように振る舞ってきたけど、本当はずっと寂しかったんだ。だから早く楽になりたいんだ。寂しいのは生きている間だけにしてほしいんだ。すんなりあの世に行かせてほしいんだ。何かをしなければならないのはわかっているんだ。このまま何もしなければ、寂しさに加えて未練も後悔も残ってしまうだろう。俺は何をすればいい。どうすれば成仏できる。」

ギーコギーコ

「今から寂しさを埋めていくという選択肢はありえない。あそこにいる老人たちに話しかけたところで、俺にみたいな老いぼれは煙たがられるだけだろう。今更他人と交流したところで、寂しさは埋められるはずがないのだ。若い時から他人と交流すればするほど寂しさを感じていたのだから。俺は誰よりも寂しがり屋なのだ。他人と交流している時間なんてあっという間で、一人でいる時間の方が圧倒的に長い。他人といる時間というのはそれは儚い。あっという間だ。楽しい時間はあっという間に過ぎ去っていく、そもそも、他人という存在自体が儚いものなのだ。永遠にそばにいてくれる他人なんて存在しない。なぜなら人間は必ず死ぬ。すべての他人は必ず死んでしまう。いずれは死別するのが避けることのできないこの世の宿命ではないか。恋人と結婚できたところで、どんなに円満な夫婦生活を送ることができたところで、いつかは必ず死別する運命なんだ。夫婦円満であればなおさら、死別したときの寂しさは大きい。だから結婚もしなかった。友達だって同じだ。どんなに気心の知れた親友と出会えたところで、いつかは必ず死別する運命なのだ。だから友達も作らなかった。他人で寂しさを埋めることなんて不可能なのだ。」

カーカー

「それに、ある一定の年齢を過ぎた頃から、寂しさは年々増していっているんだ。自分が完全なる老いぼれになったときから、寂しさは増すようになった。静寂や孤独に対する敏感さが戻りつつあるのだ。若い頃の寂しさなんて、今と比べればどうってことなかったのかもしれない。若い頃はなんだかんだで他人の方から意識を向けてくれることがあった。他人の方から興味を示してくれることがあった。それに、何よりも将来への期待があった。まだ見ぬ未来への期待があった。今はどうだろう。街を歩くと、自分よりも若い人間がたくさんいて、みんな楽しそうで、こんな老いぼれになんて誰も意識を向けない。興味も示さない。自分から歩み寄ったところで、煙たがられるだけだ。未来への期待なんてない。死に対する恐怖しかない。年々増えゆく寂しさを埋めることは無駄な抵抗でしかない。」

カーカー

「悪事を働くと成仏ができないならば、悪事とは逆に良いことをすれば成仏ができるということになる。善人が極楽へ行くことは誰しもが納得できる話だ。成仏するということは読んで字の如く仏に成るという意味だろう。仏様のような立派な人間になれればあの世に行けることを表しているわけだ。ならば、仏様のように世のため人のためになることをすれば、成仏することができるかもしれない。仏様とまでは言わないでも、何かしらの善行を積めば成仏の可能性は開けるかもしれない。でも、それも酷な話じゃないか。生きているだけでこれだけ苦しいのに、苦しい中でさらに人様のために良いことをしろだなんて、こんな老いぼれにはきつすぎる。こんな老いぼれに何ができるというんだ。金もなければ能力もない俺に何ができる。」

カーカー

「そもそも世のため人のためになることはどういうことだろうか。医者か、弁護士か、警察官か、国会議員か。今さら医者になんてなれるわけがない。弁護士にも警察官にも国会議員にもなれっこない。完全に手遅れだ。でも、若い頃から医者や弁護士を志していたとしても、俺の性格からして勉強が続くわけがないだろう。医者や弁護士になるなんてことは、そもそも俺には実現できないなことなのだ。」

カーカー

「いずれは必ず離れ離れになる他人、いつかは必ず死にゆく儚い人間にたいして、役に立つことをしたところで、はたして意味などあるのだろうか。医者だって見方によってはくだらないもんじゃないか。病気を治したところで結局は死んでしまうんだから。世のため人のためになることなんてあるのだろうか。」

老人は揺れるブランコに近づき、「失礼します」と声をかけてブランコに座る。しばらく揺れながら黙っている。突然カラスが地蔵から飛び去る同時に、ビチャっという音が聞こえる。カラスが糞をしてそれが地蔵の頭にくっついたのだ。

「あ!地蔵に糞かけやがった。なんて罰当たりなやつだろう。見事に顔面に直撃してる。(地蔵に近寄り)よく見るとこの地蔵、とても汚れてるな。そもそもなんでこの公園には地蔵がいるんだ。公園ができる前からここにあったのだろうか。地蔵っていうのは仏様だろう。奈良の大仏様と同じ仲間の仏像だろう。それなのになんで地蔵はこうも路端に置かれているんだろうか。お寺のお堂のような立派な場所にまつられていないのだろうか。公園に野ざらしで置かれている仏様っていうのも不思議なものだ。公園なんていったら赤ん坊から俺みたいな小汚い老いぼれまで誰でも気軽に入れる場所だろう。そして、あの世に行けなかった存在だってわんさかいるわけだ。あそこのブランコにも、あそこのベンチにも、あそこにもここにも見えない何者かがいる。公園しか行く宛のない者たちで溢れ返っている。そんな雑多な空間に置かれた仏様っていうのは、ずいぶんと大変だものだよな。」

地蔵の前にしゃがみこむ

「信仰心なんてまるでなかったし、ましてや地蔵なんてこれっぽっちも意識を向けたことなんてなかった。むしろ薄気味悪ささえ感じていたくらいだ。いや、気味の悪さは今も感じているんだが、なんというか、同じ公園にいる仏様ということが親近感を湧かせるというのだろうか。それにしてもこの地蔵は汚い。カラスのやつはこれまでにも何発も糞を撒き散らしていたようだ。こんな公園にいるからこんなことになるんだ。ただでさえ薄気味悪いものなのに、こんなに汚れていたら気味の悪さしか残らない。誰もこの地蔵に興味がないのだろうか。たしかに誰かがこの地蔵を拝む姿を今まで見たことがない。そういえば昔、近所にあった地蔵を毎日世話しているホームレスがいた。どこからか掃除用具を持ってきては、ゴシゴシ磨いて、朝から晩までずっと地蔵のそばに座っていた。そこがホームレスの住処だったのかもしれない。子供の頃はそのホームレスと地蔵がとても怖かった。できるだけ近くを通らないようにしていた。あんなふうにはなりたくないなんて子供ながらに強く思っていたものだ。それが今は信じられないことだが、なんとなくそのホームレスの気持ちがわかる気がするのだ。あんな小汚いホームレスに共感できてしまう小汚い老いぼれになる未来なんて今でも否定したいのだが、どうもあのホームレスの姿が、妙に胸の中で響いてくる。ああはなりたくないと思うのだが、どんな気持ちでホームレスが地蔵を磨いていたのかが、理解出来る気がするのだ。つまり俺は今、この地蔵を磨いてみようと思っている。あのホームレスのように。」

カーカーと遠くの方でカラスの鳴き声が聞こえる

「俺は死んだら無縁仏になる。俺みたいな無縁仏が頼れる存在はこの地蔵しかいないのではないか。寺にまつられた荘厳な仏様は、あまりにも次元離れしていて近づけそうにない。死んでも行くことができるような場所、何の変哲もない普通の街の普通の路端や公園に置かれているこの地蔵しか頼れる仏様はいないのではないか。俺は死ぬのがとても怖い。死ぬのが怖い時、こうも信仰心というものは芽生えるのかもしれない。今のままではいけない。何かしないといけない。神頼みでもなんでもいいから、今自分ができることをしなくてはいけない。この地蔵を磨くことなら、俺にだって出来るはずだ。あのホームレスだってやっていたんだから。」

こうして老人はどこからか掃除用具を持ってきて地蔵を磨き出す。ゴシゴシと磨く音が響く。

「お地蔵さんに良いことをしたらたくさんの褒美をもらえたという昔話があったな。」
ゴシゴシ
「あれはたしか、たくさんの宝物や食べ物がもらえたんだったかな。」
ゴシゴシ
「もし褒美をもらえるのなら、俺は宝者も食べ物もいらない。」
ゴシゴシ
「俺は成仏という褒美が欲しい。」
ゴシゴシ
「でも、この地蔵を磨くことは、世のため人のためになっているのか。」
ゴシゴシ
「地蔵を磨いたところで、誰の役に立っているのか。」
ゴシゴシ
「なんかご利益目当てみたいで、どうもよろしい感じがしない。」
ゴシゴシ
「どうも意味のないことに思えて仕方がない。」
ゴシゴシ
「なんて言ってる間にきれいになってしまった。小さい地蔵だからあっという磨き終わってしまった。さて、どうしたものかな。意気込んでいた割にはあっけなさすぎるじゃないか。」

ギーコギーコとブランコが風で揺れる音がする。それを見つめる老人。

「そうだ、あのブランコも磨いてみよう。このベンチも磨いてみよう。あのブランコにも、このベンチにも、見えない誰かが座っている。そして俺自身も、死んだ後も座ることになるかもしれない。この公園には生きている人間と死んだ人間が共存している。このベンチには、あのブランコには、生きている人間も座れば死んだ人間も座るのだ。生きている俺も座るし、死んだ俺も座る。待てよ。考えてみると、公園のベンチを磨くことの意味はとても深いかもしれない。だってそうだろう。人はいつかは必ず死ぬ。いずれは死ぬ人間に対してできることはとても儚い。医者は死んだ人間に対しては何もできないのだ。このベンチには生きている人間も座れば死んだ人間も座るわけだ。このベンチを磨くことは、生きている人間の役にも立てば、死んだ人間の役にも立つ。これはすごいことなんじゃないか。生死を超えて人間の役に立つことなんじゃないのか。なんてこった。なんてこった。」

カラスがカーカーと鳴きながら公園を飛んでいる。老人はベンチをとブランコを磨き始める。ブランコとベンチを磨き終わるとカラスが地蔵に糞を落とす。老人はそれに気付いて再び地蔵を磨く。地蔵を磨き終わると今度はブランコ、ブランコを磨き終わると今度はベンチに糞を落とす。地蔵→ブランコ→ベンチの順でいたちごっこのように老人が掃除してはカラスが糞をしてを繰り返す。途中から老人が磨きながら歌い出す。一節歌い終わる毎にビチャとカラスが糞を落とす音がする。

これはあの世のことならず(ビチャ)
はるかに都庁の影見える(ビチャ)
賽の公園の物語(ビチャ)
聞くにつけても哀れなり(ビチャ)

六十、七十、八十にもなった老体が(ビチャ)
あの世恋しあの世恋し(ビチャ)
恋し恋しと泣く声は(ビチャ)
この世の声とは事変わり(ビチャ)

悲しさ骨身を通すなり(ビチャ)

かの老体の所作として(ビチャ)

箒ブラシをとり集め(ビチャ)

これにて回向の清めをする(ビチャ)

地蔵磨いては成仏のため(ビチャ)

ブランコ磨いては成仏のため(ビチャ)

ベンチ磨いてはみずからの(ビチャ)

成仏のためと回向して(ビチャ)

昼は独りで遊べども(ビチャ)

日も入り相いのその頃は(ビチャ)

地獄のカラスが現れて(ビチャ)

我を恨むる事なかれと(ビチャ)

くろがねの羽を広げ(ビチャ)

磨きたる椅子に糞をする(ビチャ)

「いい加減にしろ!」と老人がカラスに叫ぶとカラスはカーカー鳴きながら飛び去っていく。

夕焼け小焼けのチャイム。暗転すると老人はヨボヨボになっていて、よろよろと歩きながらベンチに座る。

「このベンチからは都庁がよく見える。綺麗なもんだ。もうどれくらい新宿に行ってないんだろうか。いつから行かなくなったんだろうか。もう何十年も行ってないのは確かだ。若い頃新宿で飲んでいた時、俺はとんでもないお調子乗りで酒に酔って気分が良くなると騒いでしまう癖があった。情けない話なんだが、あの日も朝まで一人で騒いでしまって、付き合ってくれていた人たちもみんな呆れて帰ってしまった。ひとりぼっちになってしまったわけだ。俺は案外酒に強くて、騒いではいるんだけど、完全には酒に飲まれていなくて、頭の隅の方ではすごく冷静な自分がいて、バカみたいに騒いでいる自分を客観視しながら呆れていた。このままじゃいけない。こんな飲み方はよくない。こんな振る舞い方をしていてはいけないってわかっているわけだ。それでも、一回浮かれだしたものを急にやめるのはおかしな話だと思って、一回やりだしたことは最後までやり続けようというわけのわからない理屈で、そのまま騒ぎ続けた。自分の中に浮かれた部分があることは知っていた。それが嫌いだった。あの日も浮かれた自分に頭の隅では嫌悪感を抱きながらも浮かれていた。そしてみんなが帰ってしまって、一人ぼっちになった途端に心にズシンと襲ってくる例の重み。その日はいつにもまして重かった。あの時から酒も飲まなくなったし、新宿にも行かなくなったんだっけな。」

遠くでカラスの鳴く声が聞こえる

「俺は寂しがり屋だから酒をやめられたのか。そんな人間他にいるのかね。寂しさが原因で酒をやめるなんて、俺はどれほど寂しがり屋なんだろう。だって普通は逆だろう。寂しい時こそ酒を飲むもんだ。酒を飲むことで寂しさを紛らわせるものだ。なのに俺は酒を飲んだあとの寂しさに耐えられなくて酒をやめた。俺の寂しさは酒を飲んだくらいで紛らわせるものではなかったんだ。もし俺がこんなに寂しがり屋ではなかったら、どんな人生を歩んでいただろう。ひとつ言えることは、何年もの間ずっとベンチやらブランコやらを磨いてなんていなかったということだ。」

カーカーと鳴きながらカラスが地蔵に止まる

「どうして寂しさは存在するんだと思う。お前も寂しい時があるのか。今そうやって鳴いているのも、寂しいからなのか。」
カーカー
「俺は寂しがり屋だから、酒をやめられた。寂しがり屋だから、他人との交流を断った。女遊びもしなくなった。寂しがり屋だから、音楽もテレビもラジオも聞かなくなった。俺は寂しさで寂しさに耐えてきたわけだ。寂しさは、酒を飲みたい、音楽を聞きたい、女と遊びたいといった、俺の浮ついた気持ちを押しつぶしてきた。パン生地を綿棒で平らに伸ばすように、俺の浮ついてぐにゃぐにゃになった心を押しつぶして平らにするものだった。寂しさはあれもしたいこれもしたいという欲望を静めさせるのだ。寂しくなるから諦めるのだ。寂しさは人間の浮ついた心を平らにするために存在するのかもしれない。人間にとって必要な心の重みなのかもしれない。俺が寂しがり屋でなかったらどうなっていただろう。心に重みを感じない人間だったら今頃どうなっていただろう。老いぼれになっても浮ついたまんまで、街をほっつき歩いて、酒を飲んで、モテもしないのに女を追っかけていたかもしれない。今頃どこかの路上で野垂れ死にしていたかもしれない。今の自分を無理やり正当化させるとするならば、俺は寂しがり屋でよかったわけだ。きっとそうにちがいない。これでよかったんだ。おかげでこうして生死を超えた役に立つことにも気付くことができたじゃないか。」
カーカー
「そしたらもう成仏のことなんて考えなくてもいいのかもしれない。ベンチを磨きはじめてからもう数年に月日が経った。我ながら驚いているんだ。こんなにも続けられたなんて。俺はよっぽど死が怖かったんだ。よっぽど成仏したかったんだ。死んでもなお寂しさを抱えながら過ごすことが、よっぽど怖かったんだ。でももう今の俺にベンチを磨く動機はなくなった。寂しさは俺にとって必要なものだったことに気付いたのだから。寂しがり屋の人生でよかったわけだから。実は最近体力がだいぶ落ちてきた。今じゃこのベンチひとつを磨く体力も気力もなくなるほど弱ってしまった。ちょうどいい。そろそろ潮時だ。もうやめてもいいだろう。」
カーカー
「ついに俺は本当に何もすることができなくなったのか。ベンチさえ磨けなくなってしまった。寂しさは浮ついた心を平らにするために存在する。俺は寂しさのおかげでここまで無事に生きてこられた。最後には世のため人のためになることも少しだけすることができた。そんな俺の今の気持ち、知りたくないか。心の重みもどこかに消え去って、今にもあの世の飛び立てそうな、そんな気持ちになっていると思うか。」
カーカー
「歩くことで精一杯な俺が、どうしてまだこうやって体力を振り絞って公園に来ていると思う。地蔵を磨くためじゃない。ベンチを磨くためでもない。もう磨く体力はないのだから。俺が公園に来る理由は、実は最初の頃と全く変わらない。寂しいからなんだ。家にいると寂しくなってやっぱり外に出たくなる。俺の頭では、寂しさに対してひと区切りつけることはできているのだ。でも、頭の中で解決できたところで、心の重みがなくなるわけではない。寂しさが消え去るわけではない。寂しいままなのだ。相変わらず寂しくなって心の重みを感じると、結局あの不安が蘇ってくる。死ぬのが怖い。成仏できるかわからない。俺はもう何をしても寂しさから逃れることはできないのだろう。寂しさと一生を添い遂げる運命なのだろう。全く嫌になる。寂しさとは腐れ縁なんだろうな。」
カーカー
「寂しさの重さに引っ張られないように、世のため人のためになることをして、寂しさに対して良いことしたという事実を上書きすることで成仏しようと考えて、地蔵とベンチを毎日磨いてきた。それでもまだ寂しさが圧倒的に勝っている。まだまだ上書きできていない。ならば、俺は死ぬまで世のため人のために何かをしつづけてないといけないことになるのだろうか。でも、もうベンチは磨けない。何もすることができない。」
カーカー
「そういえばあのホームレスはどうなったのだろうか。しばらくして引っ越してしまったから、どうなったのかはわからない。今の自分の姿はあの時のホームレスの姿に重なるのだろうか。大差ないのは違いないだろう。あそこで遊ぶ子どもたちは、地蔵やベンチを磨いていた俺のことを、薄気味悪く見ていたに違いない。俺がホームレスを怖がっていたように、俺のことを怖がっていたに違いない。今こうやって一人ベンチで佇む俺の姿を見て、子供ながらにああはなりたくないと思っているかもしれない。でも、あそこで遊ぶ子供たちもみんないずれは老いぼれになる。彼らが老いぼれになったときに、俺がホームレスを思い出したように、俺の姿を思い出すことなんてあるのだろうか。まずないだろう。まずないだろうけど、もしかしたら、あるのかもしれない。」
カーカー
「あのホームレスのしていたことは、ただ地蔵を磨いていただけだ。地蔵を磨くこと自体は誰かの役には立っていない。でも、その磨く姿は少なくとも俺の役には立った。子供の頃の俺はあの姿に強烈な寂しさを覚えた。それが怖かったのかもしれない。あんな寂しい人間にはなりたくないと思ったのかもしれない。でも、自分が老いぼれになって強烈な寂しさを抱えるようになったとき、あの寂しい姿に共感を覚えるようになった。だから彼を真似して地蔵を磨きはじめた。さらにはベンチを磨き始めた。俺はこう思うのだ。彼も俺に負けないくらいの寂しがり屋だったのかもしれないと。俺みたいな寂しさに敏感すぎる人間は、俺以外にもいるのかもしれない。俺と全く同じ心の重みを抱えた人間が、他にもいるのかもしれない。俺ほどまでとは言わないまでも、寂しさを感じるということは人間共通の感情だということは間違いないのだ。あそこで井戸端会議をしている老人たちも、他人と交流できるほど寂しさに敏感ではないものの、日常のどこかで寂しさを感じることは必ずある。だからああやって集まって交流しているのかもしれない。」
カーカー
「寂しさを抱えた人間は自分だけではない。俺ほどの寂しがり屋は俺だけじゃなくて他にもいる。あのホームレスの姿は俺にそう思わせてくれた。それは少しだけ嬉しかった。少しだけ俺を救ってくれた。寂しい人間は何をされたら嬉しいのか、寂しい人間はどうなったら救われるのか、寂しい人間にとっての役に立つことは何なのか、それはもしかしたら、寂しさを見せることなのかもしれない。寂しさを共有することなのかもしれない。寂しい人間は自分だけではないと思わせることなのかもしれない。あのホームレスは俺に寂しさを見せてくれた。あのホームレスのように、誰かに寂しさを見せることなら、今の俺にも出来るんじゃないのか。寂しい人間だと他人に思わせることなんて、俺なら簡単にできることなんじゃないのか。ただこのベンチで一人寂しく佇んでいればいいわけだ。それだけで十分寂しさを見せられるはずだ。」
カーカー
「朝や昼の時間帯に佇んでいたら、それはただ暇な老人が気晴らしに日向ぼっこに出ているだけと思われてしまうかもしれない。日の出ている時間帯では寂しさは演出できない。やはり夕方から夜にかけて公園に行き、一人でベンチに佇めば、寂しい老人の雰囲気が出るに違いない。必要なのはこの演出だけだ。俺は現に寂しい。だから演じる必要はない。ただ座っているだけで、十分寂しい人間に成り切れているはずだ。俺はもう、ただ座っているだけで、世のため人のためになることができるのか。すごい人間じゃないか。俺はもう、一人寂しく生きるだけでいい。」
カーカー
「これが俺にできる最後の世のため人のためなんだ。おい、子どもたちよ、君たちもいつかは必ず寂しさを感じるときがあるだろう。ひとりぼっちを経験することがあるだろう。君たちが寂しさを感じたとき、ふと俺を思い出してくれないか。昔遊んだ公園で、夕暮れ時に、とても寂しそうな汚い老人が毎日ベンチにひとりぼっちで座っていたことを。おい、井戸端会議をしている老人たちよ、君たちもそろそろ強い寂しさを感じ始める頃だろう。日増しに強くなる寂しさに悩まされ始める頃だろう。君たちが寂しさを感じたとき、ふと俺を思い出してくれないか。あそこに座っている老人はいつも一人ぼっちで、小汚いから誰も話しかけようともしなくて、あんな老人に比べたら自分はまだまだマシかもしれないななんて思ってくれれば、それは俺の本望だ。おい、カラス、俺に糞でもぶっかけてくれないか。カラスに糞をぶっかけられてる老人なんて、最高に寂しいじゃないか。顔面直撃大歓迎だ。おい、この公園を彷徨っている、この公園にしか行く宛のない、供養してくれる人もいない、成仏できなかった誰かさんよ、俺の姿を見てくれないか。この寂しい老人もきっと、死んだら俺の仲間になるかもしれない、仲間が増えるかもしれないと思ったら、寂しさも少しは薄れるだろう。夜になって、公園に誰もいなくなっても、俺はしばらく、ここにいる。俺はしばらく、ここに座っている。」

老人はずっとひとりぼっちでベンチに座り続けている。公園はまだ子どもたちの遊ぶ声などでざわざわしているが、夜になるに連れて静かになっていく。真っ暗闇の中、老人だけライトアップ。それも次第に消えていく。真っ暗闇の中、カラスがアホーアホーと鳴きながら飛び去る音がする。



    
 
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