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2002年5月22日
他人を理解するのは命がけだ
そう河合隼雄が言っています。
例えとして、夫が派手にお金を使う人で、妻が倹約家の場合。
両者が協力しあって何かをしているときは適当なバランスがとれてうまくいくだろうが、
2人が正面から向き合って理解しあおうと試みたとき、妻は倹約の美徳を説き、夫が真にそれを理解しようとすると、今までの自分の生き方は馬鹿げており、それを妻のおかげでなんとかなってきた、と考えなければならなくなる。
逆に、夫が、自分が浪費家のおかげで他人にケチと見られず、世間体が保てたのだ、などと言いだすと、妻は「私のことをわかっていない」などと言いだすのではないだろうか。
つまり他人のことを真に理解しようとすると、自分の人生観が根っ子からぐらついてくる。自分の根っ子をぐらつかせずに他人を理解しようなど甘すぎる。つまりは命がけなのだ。
とまあ、こんなことを言っています。
この例え話はちょっと?ですが、この話には、なるほど、という感じです。
そしてあたしは、「愛」というものは、この「真に相手を理解しようとすること」なのではないかな、と思います。
それは男女に限らず、男同士でも女同士でも。
そして、だからこそ愛は命がけ・人生をかけてのもので、同時に複数の人を愛することができないものなのではないでしょうか。
なぜなら、真に理解しようとすれば、自分のIdentityさえ不確かなものになってしまうのに・・・
しかし、もし片想いであったり、何らかの理由で解りあえない状態であれば、いくら真に理解しようと望んでいてもそれは叶わず、やがて自分が抱く相手の偶像との対話が成り立っていくでしょう。相手にとっても、偶像と実像のギャップが生まれることは当然ですし、理解しようという思いが強ければ強いほどIdentityさえ喪失し、相手も自分をも見失っていってしまうのではないでしょうか・・・
こう考えると、愛は見返りを求めるものではないというのはわかる気がしますが、しかし相手との協力というか、一種の努力、協調しあうことが必要な気がします。
そしてまた、だからこそ、愛は奪うでも与えるでもなく、気がつけばそこにあるものなのかもしれません。
「他人を理解するのは命がけだ」奥付
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