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豹の皮(和田周)

豹の皮                            和田 周

 

2月24日、『「イラク攻撃と有事法制に反対する演劇人の会」への呼びかけ』という赤紙が届いた。冗談でなく(むろん冗談だが)赤紙なのだ。つまり、B5の赤色のチラシの中央に、写真版の「臨時召集令状」が丸ごと一枚、レイアウトされている。

文面は「右臨時召集ヲ例セラル依ッテ左記日時到着地ニ参著シ此ノ令状ヲ以ッテ常該召集事務所ニ届出ヅベシ」「開始日時/平成15年2月28日(金)正午」「到着地/新宿 紀伊国屋ホール」「召集部隊/イラク攻撃と有事法制に反対する演劇人の会」

発送元は「世の中と演劇するオフィスプロジェクトM」である。

こうやって書面を書き写しながら、ムシズがはしる。なんて無神経な悪ふざけなんだ。

 

赤紙の周囲の地を埋めた「呼びかけ文」と、ゴシック箇条書きの宣言文は次のとおり。

『現在、世界情勢はアメリカの「イラク攻撃」をにらみ、緊張を増しています。ブッシュ米大統領は、国連安保理決議を待たず、単独攻撃も辞さない覚悟であることを表明し、また、日本政府は、パウエル米国務長官が行ったイラクによる国連査察の妨害や兵器隠蔽に関する証拠開示に関連して、アメリカ支持の立場を打ち出しました。

フランス・ドイツをはじめ、多くの国々、多くの人々がこの攻撃に強い反対の意志を表明しているにもかかわらず、米政府は着々と「イラク攻撃」の準備を進め、すでに攻撃開始は秒読み段階に入ったとさえいわれています。

この危機にあたり、平和を願う演劇人として、有志を募り、「イラク攻撃」に反対する行動を起こし、演劇人の立場から広く社会に呼びかけようという声が上がりました。同時に、基本的人権を考慮しない、防衛出動を優先させる戦争協力法案である「有事法制」についても、強く反対の立場を表明します。

    対話によって成立する演劇は、武力攻撃による外交手段に反対します。

    人間を中心に据えた演劇は、人権を軽視する法案に反対します。

    演劇は、戦争に反対します。

公演あり歌ありリーディングありの演劇人らしいイベントを計画しています。』

〔裏面には124人ほどの「演劇人」が「呼びかけ人」(03/2/18 16時57分現在)として(アイウエオで連記)されている。〕

 

さて、◎印ゴシックの宣言文についてである。

「反対」の主体に「演劇」を据えたのが、呼びかけ人の工夫なのだろう。三行の異議申し立ては、わずかに特権的な位置からあらかじめ宣言されている。つまり、『わたし達は、常日ごろ「対話によって成立する演劇」、「人間を中心に据えた演劇」をとり扱う職業的技能占有集団としての演劇人である。ゆえに、日常生活者(観客)に先駆けて、「武力による外交手段」、「人権を軽視する法案」、総じて「戦争」一般に、「反対し」、「広く社会に呼びかけ」ます。』と、舞台の高みから声を揚げているのだ。

考えてみてもらいたい。演劇にかかわりのない生活者の日常が、「対話によって成立」していないと、本気で思っているのか? 世の中の人間が、演劇人よりも、日々「人間を中心に据え」ずに、うっかり迂闊に生きていると、まともに信じているのか?  

むしろ演劇こそは、日々の生活者の場から立ちあがる人間と人間の営み・対話の、模倣と再現から出発し、さらにその先の暗がりを覗き込もうとする、閉鎖系のせつなくもおぼつかない仮の行為だと、ぼくは思うのだが、異論があるか? 

あなた方の今回の行動は、矢印の向きが逆だと思う。日常の生活者(観客)こそ、生ある日々を直接に生きている生の実践者のはずではないのか? だとしたら、たとえばぼく等(俳優)が、人の世からおいてけぼりを喰らうのが淋しくて「戦争に反対」の掛け声のひとつも人並みに挙げたいのなら、「こんな稼業に現(うつつ)をぬかしてはいても、わたしも人の子です。皆さんの後塵を拝させてはいただけませんか?」くらいのしおらしい台詞のひとつも吐くことから始めるのが筋ではないか。

 

既成組織のお先棒かつぎ、かれ等のお題目とデマゴーグに引きずり回された、あの「かつてないたかまり」運動の行く末がどのようなものだったかを、ぼく等は演劇人として、60年、さらには70年代に、つくづく身にしみたはずではなかったのか。

あの時代にくらべて、今日の世界にただ一つ希望があるとしたら、人々がそのような「出来上がった組織活動」「制度化された大衆運動」につくづく愛想を尽かし、無党派層・無関心派と呼ばれながら、やっとのことで霧の中から姿を現しはじめた世界の不条理に向かって、「それは嘘だ」と毒づける自前の言葉を手にしはじめているという、予感である。もし演劇人がほんとうに人間のことがらを中心に据えて、見据え、模倣し、かぶくことを生業(なりわい)にしていると言うのなら、せめてそれぐらいの予兆を感受する皮膚感覚を磨いたらどうか。「臨時召集令状」などと、無残な洒落はやめてもらいたい。

 

日常生活者と芝居屋の関係を、僕はこう考える。

たしかに演劇もまた、日常生活者の社会的な活動の場合と同じように、対象として「対話」を、「人間」を、中心に据えて取りあつかう。ただし、逸脱してである。

舞台上に晒された「対話」と「人間」は、日常生活者の交わす「対話」とそこに立ち現われた「人間」の営みを一歩(おそらく、かすかに呪われた方角へ)、危なく踏み込み、踏み外すことで、かろうじて劇表現としての価値を手に入れるのだ。もともと遊芸者は、生活者の集落から河原に追放され、追放されたその位置から、非在の賽の川原を幻視し、その悪夢を祭りの場に持ち帰り、憑依の舞に仕立て上げ踊るのではないか? ぼく等は、いわば集落の生活空間の外縁近くにまで遠ざけられ、そこに棲みついた、豹の皮を被ったシャーマンの末裔ではなかったのか? そのシャーマンが、かりに「わたしも人の子だから」と呟きながら、日常の政(マツリゴト、祭りではない)に参加したいと願ったら、その時は、豹の皮を脱いで、おどろおどろの化粧を落とし、しおらしく広場の群れにまぎれ込むのが筋ではないのか。

むろん現代は、中世でも原始時代でもない。しかし演劇が、たとえ市民社会の中に埋没し、去勢され、呪術としての力と毒をみるかげもなく失くしてしまったといしても、ぼく等の血の最後の一滴にその毒が記憶として残っている限り、シャーマンの末裔としての最低限の流儀と礼節は、守るべきではないか。

誤解しないでほしい。僕は演劇に、日常から完全に絶縁し、隔絶したうえで特権的な境地を切り開けなどと言っているのではない。まぎれもなく演劇の「対話」と「人間」は、日常生活の「対話」と「人間」にかかわっている。ただ、いったんは逸脱したもの、危ういもの、毒のあるものとしてである。つまりその毒は、日常の場に手柄としてじかに持ち込まれるのではなく、その毒ゆえにいったんは市民権を奪われ、隠蔽された後に、日常の裏側、影の部分にまわり込み、日常生活者の夢と無意識の領域に忍び込んだ末に、ついには、その夢と無意識の内部から眼を醒ました生活者自身が、自らの手でつかみ出した得物・自前の意識・想念として、はじめて娑婆の陽の目をみることになるのだ。

 

ぼく等は二重に生きている。劇場で逸脱の夢を仕掛ける私(俳優)と、その夢の記憶をたぐって目覚めた日々を生きる私(日常生活者)と。そして、その日常生活者の私が、いま、やっとのことで自前の言葉を手にいれ、世界に向かおうとしているのだ。(いや、ここでも次なる逸脱が待ちかまえている。手にいれたと思った自前の言葉は、世界をまえにして、再び手からこぼれ落ち、その狼狽と歯軋りが、再度ぼく等を逸脱へと誘い込み、またしても豹の皮をまとわせるのだ)

 

最後の逸脱ですこしフットワークが乱れたが、いずれにせよ(二重であれ無限循環であれ)、ぼく等に、「臨時召集令状」の悪ふざけに付き合う筋合は、ないのだ。それがシャーマンの末裔としてのぼく等の倫理ではないか。

 

だいぶ直情にかられて、暴言を吐いたが、呼びかけ人の「世の中と演劇するオフィスプロジェクトM」の方からのご返事は、ぼくの方からは別に望まない。世の中に色々なスタイルの演劇があって当然だ。お好きなように今後も「世の中と演劇」なさったらいいと思う。ただ、ビラの裏面には、僕の師と仰ぐ劇作家達、尊敬する先輩、かつての大切な仲間が数十人、呼びかけ人として名を連ねていらっしゃる。故に、この文を公開質問状として、呼びかけ人の責任において、何方かにお答え願いたいのだ。「お前、なにトチ狂ってるんだ。芝居の世界がまだわからないのか!」とお叱りをうけ、蒙をひらいていただけたら幸せである。             

演劇組織「夜の樹」主宰